Sola Gratia

待降節第4主日 説教

マリアのエリサベト訪問

39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

きょうの聖書は、受胎告知の物語に続く箇所です。天使ガブリエルがマリアのところにやってきて、《おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる》(28)と声をかけます。マリアがこの言葉に戸惑っていると、天使は、《マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい》(30-31)、と受胎を告知します。マリアにとって大きな出来事が予告されました。マリアは、《わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように》(38)と答えます。

マリアはそう答えて、すぐに行動を開始します。「急いで」親類であるエリサベトのところに向かったのです。天使がマリアに、《あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている》(36)と告げたからです。マリアと同じ大きな出来事がエリサベトの身にも起ころうとしていたのです。マリアがエリサベトのところに向かったのは、天使の言葉を確かるためではありません。その大きな出来事を分かち合える人のところに、マリアは急いで出向いたのです。

このようにして、エリサベトのところにマリアは着きます。そして、マリアは、《家に入ってエリサベトに挨拶し》(40)ました。《マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった》(41)のです。胎児は六か月以上になっているので、エリサベトはその胎動を感じることができました。ここでは、エリザベトの胎児だけが踊っているようです。エリサベトの胎内にいる胎児は旧約聖書の預言者を代表する洗礼者ヨハネです。ヨハネはイエスさまの登場、新しい時代が到来したことを喜び、踊りました。《エリサベトは聖霊に満たされて、42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました》(41-44)。

エリサベトはどうしてマリアが妊娠していることを知ったのでしょうか。マリアが挨拶の中で事情を話したとも考えられます。しかし、「エリサベトは聖霊に満たされて」とありますから、マリアの挨拶を聞いたとき、具体的な言葉はなくても、マリアの上に何が起きたかが分かったのでしょう。このエリサベトの聖霊によるマリアへの祝福は、すぐ後に続く「マリアの賛歌」の前半(46~50)に、その応答があります。また、「胎内のお子さま」への祝福も、「マリアの賛歌」の後半(51~55)に、その応答があります。このように、「エリサベトの祝福」と「マリアの賛歌」は一対となっているのです。

その後、《マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在し》(56)た、と記されています。マリアは婚約中であって、まだヨセフの家には入っていないので、このような長期の滞在もできたのでしょう。二人は三か月もの間、いったい何をしていたのでしょうか。マリアがエリサベトを訪問している場面が描かれている泰西名画には、二人はとても親密に、寄り添うように描かれています。二人は親戚だから親しいのだとも言えますが、聖書は二人が同じ神の御業のために用いられていることを悟ることができたためだと言っているようです。一方はイエスさまを身ごもり、他方は洗礼者ヨハネを身ごもっています。しかし、同じ神の御業のために用いられた、そのような二人が出会ったのです。喜びに満たされ、祝福の言葉を交わし合う、そのような信仰の交わりが生まれていたのです。

神の言葉が与えられ、その言葉によって一致した人がいるところ、それが教会です。たとえ立派な建物がなくても、信仰者の交わりが教会を生み出すのです。マリアとエリサベトの姿は、一番古い教会の姿であると言われています。

私たちの教会もそういう姿でありたいものです。マリアとエリサベトのように、ぴったりと寄り添っても良いし、別にそうしなくても構いません。お互いにプライベートのことを話し合って、より親密になっても良いし、そういうことが少なくても構いません。大切なのは、神の言葉を聴いて、そこに信仰の交わりが生じているかどうかということです。祝福の挨拶を互いに交わし合うことができるかどうかということです。

たしかに、教会にはいろいろな人がいます。教会に導かれた経緯はさまざまで、人によってそれは異なるでしょう。しかし今は、一つの希望を抱き、一つの喜びに生かされているはずです。あの人の希望・喜びと、自分の希望・喜びは同じであるはずです。私もあなたも、神の御業のために用いられている。そのことを互いに祝福し合っている。神を喜び祝う交わりが生じてくるところ、それが本当の教会の姿です。

とくに二人はそれぞれ、イエスさまと洗礼者ヨハネを身ごもっていました。マリアもエリサベトも、自分が神の御業のために用いられる喜びを、その体で直接、体験していたのでしょう。そしてこのことが信仰者の交わりを生み、教会を生み、神をほめ称える歌になったのだと思います。

しかし、これはマリアとエリサベトだけが味わえる特権ではありません。二人だけでなく、誰もが味わえるものになりました。マリアのお腹の中に、イエスさまがおられたのですから、マリアたちは救い主と常に一緒でした。それは今の私たちも同じです。救い主が私たちの間におられます。マリアのように、私たちのお腹の中にではないにしても、私たちの交わりの間に、救い主イエスさまがおられます。私たちの交わりの間におられるのです。イエスさまが共におられることを、私たちも体験することができます。教会とはそういうところです。この教会でこそ、私たちはイエスさまに出会います。マリアとエリサベト、最も古い教会の姿が、私たちの教会の姿でもあります。そのような教会にされていることを、心から神に感謝したいと思います。

きょうの箇所の最後で、エリサベトは、《主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう》(45)と、マリアを称えています。

天使ガブリエルが伝えた神の言葉を、《わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように》(38)と言って、ひれ伏して受け入れたマリアを、エリサベトは「なんと幸いでしょう」と祝福します。この信仰がマリアを「女の中で祝福された方」とするのです。エリサベトは今も、夫の祭司ザカリアが天使の言葉を信じなかったためにものが言えなくなっている現実に直面しています。それだけに、マリアが信仰によって祝福されていることを強く意識するのでしょう。この出会いは、胎内のヨハネと胎内のイエスさまとの出会いですが、同時に幼な子を宿す「女性たち」の出会いでもあります。彼女たちは「必ず実現する」ということを、実現する前に、未だ実現していない状況の中で「身体で感じた女性たち」です。

では、この神の恵みの根拠はどこにあるのでしょうか。エリサベトやマリアには取り立てて特別な賜物や才能があったのでしょうか。神に選ばれて当然の素質や素養があったのでしょうか。決してそうではありません。神の恵みの根拠は、私たち人間の中にはないのです。恵みの根拠は、神の自由な選びの中にあります。《わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して》(1ヨハネ4章10)、ご自分のものとしてくださったのです。ここに神の愛があります。私たちの側で選ばれる理由はまったくないのに、神が「良し」としてくださったことで、私たちは恵みの中に招き入れられているのです。だからこそ「恵み」なのです。

神の支配に信頼し、その恵みの導きに身をゆだねる者は、真に充実した、祝福された歩みを与えられます。それが、マリアとエリサベトに明らかにされたことです。そして今、私たちにも約束されていることなのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」、こう言って「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸い」(45節)なことであるか、そのことを私たちも味わい知る者とされているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。聖霊が降り、あなたが私たちの心を開いてくださるとき、私たちは救い主の到来を知り、感謝と讃美で満たされます。この良き知らせを心からの喜びをもってお迎えできるよう私たちを導いてください。救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。