聖霊降臨後第24主日 説教
やもめの献金
- 2021年11月7日(日)
- 聖霊降臨後第24主日
- マルコ12章38~44
38イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、 39会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、 40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
エルサレム神殿の境内(外庭)での出来事です。イエスさまは群衆に、《律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み・・・》(38~39)と教えました。ここに、人々から尊敬されることを願う、律法学者たちの姿が示されます。イエスさまは、聖職者が祭服を着たり、人々から挨拶されたり、「上席」に座ることそれ自体を非難しているのではありません。それらのことを自分の名誉のために求めるようになっていることを非難しているのです。私たちの教会では、牧師が祭服を着るし、毎週、講壇に立って御言葉を語ります。それは、その務めをする人が、神によって伝道者として召されているからであり、教会によって御言葉に仕える務めに立てられているからです。しかし、伝道者が、神によって立てられていることへの畏れをなくし、人々から尊敬されることを自分の名誉のために望むようになれば、ここで言われている、長い衣を着、人々から挨拶され、会堂の上席に座ることを望んでいる律法学者と同じことになるでしょう。
また、イエスさまは、律法学者たちが《やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする》(40)とも批判しています。「やもめ」は多くの場合、「みなしご」と並んで社会的弱者、貧しい者の代表として聖書に出てきますが、この場合の「やもめ」は、夫の遺産を受け継いだ金持ちのやもめたちのことです。律法学者たちは、このようなやもめの下に行き、夫が遺した遺産から献金をさせようとします。しかも、そのようにして献金を集めたことを自分の手柄にして、名声を高めようとしたのです。やもめの悲しみや信仰心を利用する彼らの態度は、文字通り「食い物にする」ことです。彼らは、やもめの苦しみに思いを寄せているかのような「見せかけの長い祈り」をするのでした。
《大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた》(37)とあります。イエスさまの言葉は、群衆にとって胸のすく思いだったでしょう。しかし、イエスさまはこの非難を律法学者に向かってではなく、群衆に向かって語っているのです。《律法学者に気をつけなさい》(38)とは、あなたがたも律法学者たちと同じようになってしまわないように注意しなさい、ということです。群衆にもまた、律法学者たちに似た態度があったからです。つまり、ここで扱われている問題は、現代を生きる私たちをも含めた、イエスさまに従おうとするすべての人々に関することなのです。律法学者たちは、指導的な地位にあるだけに、《人一倍厳しい裁きを受けることになる》(40)と言われています。しかし、誰もが、この裁きと無関係ではありません。
律法学者の態度の根本にあるのは、自分の栄光を求め、信仰をも自分のために利用しようとする態度です。人は、神との関係を生きる信仰生活においても他者の目を気にします。信仰生活がいつしか人の目の前で生きるものになり、自分の名誉を求める誘惑が入り込んでくる危険があるのです。
この律法学者とはまったく異なる信仰の態度について記されているのが、やもめの献金についての箇所です。私たちの信仰生活は献金がすべてではないことは言うまでもありません。しかし、献金の姿勢には、私たちの信仰の態度が現れます。献金は私たちが自らを神に献げるしるしであり、献金において神への献身が具体的な形となるからです。
《イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた》(41)とあります。今まで外庭(異邦人の庭)で教えていたイエスさまは、東の門(使徒3章2の「美しい門」)を通って内庭(女性の庭)に入り、人々が献金するのをじっと観察します。大勢の金持ちがたくさん賽銭箱にお金を入れていましたが、そこに《一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚・・・を入れた》といいます。聖書の付録の「度量衡および通貨」の表によれば、このレプトンというのは最小の銅貨で、1デナリオンの128分の1とあります。1デナリオンが労働者の1日の賃金です。今日の金銭感覚で言えば、50円玉を二つ献げことになるでしょう。なお当時は、レプタ銅貨を献げる者はできれば二枚以上を献げるようにという言い伝えがあったようです。ですから、彼女は、精一杯、当時の教えに忠実でありたいと思いながら、自分の生活費の全部を献げたのです。
この光景を見ていたイエスさまは、《弟子たちを呼び寄せて》言われます。《はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた》(43)。単純に金額だけを比べるならば、金持ちは圧倒的に多くの額を献げています。《皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物すべてを入れた》(44)ことを考えると、自分の持っている財産に対する献金額の割合が最も多かったのだとも考えられます。ただし、そこで、他人と比べて自らを誇ったり、自己卑下したりということが生じると、見せかけの信仰に生きることになってしまいます。
イエスさまは、金額の多少ではなく、献金に対する姿勢を見ていたのです。金持ちは、神に自らを献げるという思いから献げているのではなく、献げている自分の姿が人々の目に止まり、そのことで、人から見た自分の評価を高めたいという思いです。一方、貧しいやもめには、神の眼差しの中で、神にのみ目を向けて献げる思いがありました。献金というのは、人の目の前でなされることではありません、神の眼差しの中で起こることです。神が眼差しを向けていてくださる、そのことにのみ思いを向けて献げるのです。神の眼差しの前で、自らを委ねきっているとき、人々の目から自由にされて、本当の意味での献金が献げられるのです。
ここで、《皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたのである》(44)と言われていることに思いを向けたいと思います。これは、良い信仰者として生きるには、自分の持っている物すべて、生活費全部を賽銭箱に入れろということではありません。この《生活費を全部入れた》は、直訳すると、「彼女の生活そのものを投げ入れた」となります。それは、自分の生活の根拠、よりどころをまったく神のもとに置いて、神にすべて委ねきるということです。有り余る中から、一部を献げるという姿勢の背後には、自分を生かしているのは自分であるという錯覚があるのです。そのような信仰生活は、自分の名誉のためのもの、人の目を気にして、自分を高めるためのものになります。イエスさまは、貧しいやもめのように、ただ神にのみ自らの命の根拠を見出し、生活のすべてを献げきる、そのような信仰の歩みをこそ、求めておられるのです。
しかし、私たちは、そのような態度を自ら到達すべき目標のように掲げて自分の力によって努力してつかみ取ることが求められているのではありません。私たちは、人々の目を気にする態度から自由ではありません。どんな業にも人の目を気にする態度がつきまといます。しかし、そのような中で、大切なのは、眼差し注いでくださるイエスさまに目を向けることです。神の御子が世に来られたのは、十字架でご自身を献げきることによって文字通り、「自分の持っている物をすべて」「生活費を全部」献げてくださったのです。神は満ちあふれる豊かさ、「有り余る」ほどの豊かな富を持っていながら、その一部ではなく、すべてを献げてくださったのです。神が人となるということ、十字架の死において自らを献げたというのはそういうことです。
使徒パウロは、《主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです》(2コリント8章9)と記しています。イエスさまは豊かであったのに、私たちを豊かにするために貧しくなってくださった。私たちではなく、イエスさまが、私たちにご自身をすべて献げてくださっている、その恵みの中で、私たちも献げるのです。私たちは、ただ、主の眼差しに見守られて、人々に対する見せかけの信仰に生きることから解放されて、自分のすべてを主に委ね、献げつつ歩む者とされるのです。
祈りましょう。天の父なる神様。御子は一人の貧しいやもめを見逃さず、その献げる心を受け止めてくださいました。私たちのためにすべてを献げてくださった御子の恵みを覚えて、私たちも御子にすべてを委ねて歩む者としてください。御子、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。