聖霊降臨後第22主日 説教
エリコの盲人をいやす
- 2021年10月24日(日)
- 聖霊降臨後第22主日
- マルコ10章46~52
46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。 47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。 48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。 51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
ガリラヤからの巡礼者たちが、ルサレムに入ろうとするとき、サマリアを避けて《ヨルダンの向こう側》(10章1)すなわち東側を南下して、川の西側に「エリコ」という町があるあたりで、ヨルダン川を渡ります。エリコはヨルダン川の下流にある古い重要な町です。エルサレムへ23キロ、健脚な人なら一日の道のりです。
イスラエルの人々はエリコという地名を聞いたら直ぐに思い出すのが、彼らの先祖がカナンの地に侵入したときに最初に占領した町だということです。エリコ攻略物語はヨシュア5章13~6章27にドラマチックに描かれています。また、エリコについては、イエスさまも「善いサマリア人」(ルカ10章25~37)のたとえ話で触れています。
イエスさまの一行もエルサレムに入ろうとしてエリコを通過します。そして《エリコを出て行こうとされたとき》(46)、道端に座って物乞いをしていた一人の盲人が、突然叫び出します。この盲人は「ティマイの子バルティマイ」であると、名前まで紹介されています。バルティマイは《道端に(いつも)座っていた》(46)とあるので、エリコでよく知られていたのでしょう。
イスラエルでは、盲目になることは、伝統的に「罪への罰」と見なされていました(創世19章11、申命28章28~29)。彼らは「汚れている」とされ(サムエル下5章8参照)、宗教的にも排除されていました。しかし、主の訪れの日には《見えない人の目が開き・・・》(イザヤ35章5)と預言されていましたから、イエスさまの盲人の癒やしには、メシアの到来を告げる「しるし」の意味もあります。
バルティマイはすでに、ガリラヤでのイエスさまのうわさを聞き知っていました(マルコ3章8参照)。大声で叫んだのは、イエスさまがどこにいるのか分からないからです。彼はイエスさまに向かって、《ダビデの子イエスよ》(47)と呼びかけています。「ダビデの子」という称号は、当時のユダヤ人の間では、来るべきメシアを指す称号でした。イエスさまはご自分が当時のユダヤ人たちの待ち望んでいるようなメシアではないことを示そうとしていたので(12章35~37)、ご自分から「ダビデの子」という称号を口にしたことはありません。けれども、約束された「来るべき者」であることは事実ですから、この盲人がイエスさまを「来るべき方」と信じて、素朴な信仰心から用いたこの称号を拒むことなく、彼の信仰の告白として受け入れます。
《多くの人々が叱りつけて黙らせようとした》(48)のは、神の預言者に会いたい場合は、先ずその弟子から許可を得なければなりません。ですから、周囲の人たちは、大声で「直訴した」彼を黙らせようと叱ったのでしょう。このような多数の人からの圧力にもかかわらず、この盲人はイエスさまに向かって助けを求めて叫び続けます。《イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われ》(49)ました。この言葉は群衆のざわめきにかき消されたのかも知れません。周囲にいた人々が彼を呼んでイエスさまの言葉を伝えたようです。《安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ》(49)。そのイエスさまの言葉を聞いて彼は、《上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た》(50)といいます。この姿に、彼の信仰が現れています。彼はイエスさまの招きの声に喜び、自分の持っているものを投げ捨て、ひたすらイエスさまだけを見つめて、イエスさまのもとに来たのです。
《イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた》(51)。この質問は、ゼベダイの息子たちへの問いかけを思い出させますが、求めている内容は、ゼベダイの二人と盲人とではまったく異なります。彼は答えます。《先生、(再び)目が見えるようになりたいのです》(51)。盲人が見えるようになるということは、人間の力では不可能なことです。彼がそのようなことをイエスさまに願ったのは、イエスさまが神から来られた方であり、イエスさまの中に神の力が働いていると信じていたからです。おそらく、盲人の答え「見えるようになる」には、イエスさまが救い主であることを知ること、信じる者になることも含まれているのでしょう。イエスさまは彼の信仰の言葉を受け止め、彼に言います。《行きなさい。あなたの信仰があなたを救った》(52)。このとき、イエスさまと盲人との間に太いパイプが通じ、イエスさまを通して神の霊の創造的な力が注がれました。彼の目は癒やされて見えるようになったのです。それと共に、彼とイエスさまとのつながりが生まれました。そして彼は、イエスさまの御足の後について行き、やがてイエスさまを信ずる者となった、本当に神を見る者となった、信仰までも与えられたということです。これが、「あなたの信仰があなたを救った」という福音が告げていることです。
これは、祈りというものは、私たちが祈る以上のものを神は備えていてくださるというたいへん大事な出来事が生まれることを示しています。祈りにはこのように、私たちの当初の願いが叶うという以上のもの、私たちにとって実は一番必要な「信仰」というものを、それも、非常に深い感謝を伴った信仰というものを、神はお与えくださるのです。
信仰によって、イエスさまがすべてを解決してくださると信頼することが、万事を解決します。信仰はなくても、本当に困った人なら助けていただけます。しかし、イエスさまは私たちに絶大な恵みを施されるとき、やはり、先ず信仰を起こさせ、私たちに、熱心に求めさせるのです。
《するとただちに、彼は見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った》(52)。「救う」には、病気の癒やしと罪の赦しの両方の場合が含まれているのが分かります(2章5~10参照)。今回の「行きなさい」は、5章14の「安心して行きなさい」と同じで、「安心して過ごしなさい」ということであって、「立ち去れ」という意味ではありません。ですから、バルティマイはエルサレムへ向かうイエスさまに付き従って、その同じ道を歩んだのです。
私たちとバルティマイとの共通項と言えば、霊的な欠陥にせよ、身体的、現実的な障害にせよ、人々から受ける差別にせよ、私たちが何らかの辛い状況の中にいて、そこから抜け出たいという切実な願いに突き動かされる時です。その上で、その願いを「イエスさまに向けて」訴え続けることが、私たちと彼との共通点となりえるところです。バルティマイの激しい願いは、彼が聞き知った「ナザレのイエス」が、たまたま自分の側を通るという「偶発的な」出来事によって生じたものです。彼はその「偶発」を自分なりに手放すまいと、自分の側を「通り過ぎようとする」イエスさまを必死に「押し止め」、イエスさまの目を自分に向けさせたのです。彼が「ダビデの子よ」と叫んだのは、彼にはそれが単なる偶然ではなく、まさに神の計らいだと映ったということでしょう。
人間の側からの必死の叫びと、これに応える神から遣わされた「ダビデの子」の相互の応答にこそ、今回の出来事が私たちに語りかける大事な意義があると思われます。ですから、私たちの場合は、「自分の霊的な盲目」を開いてくださるよう求める以前に、そもそも自分が「霊的な盲目である」そのことに気づかせてくださるのが、イエスさまの出来事なのだと知るのです。私たちが「バルティマイ」になれるかどうかは、「この一点」にかかっています。《あなたたちが盲目なら、あなたたちに罪はなかった。ところが、あなたたちは、今なお「見える」と主張している。だからあなたたちの罪は残る》(ヨハネ9章41)というイエスさまの御言葉こそ、今回の出来事が私たちに語りかけているメッセージではないでしょうか。
私たちは、礼拝において、繰り返し、バルティマイと同じ呼びかけを聞くのです。《安心しなさい、立ちなさい、お呼びだ》(49)。そして、この呼びかけに答えて、イエスさまのもとに歩み出し、自らの目が開かれることを求めるとき、私たちの信仰の目は開かれ、イエスさまに従って救いの道を歩む者となるのです。
祈りましょう。天の父なる神様。人々を愛し、苦難から助け出してくださる御子の姿をきょうも聞くことができたことを感謝します。バルティマイのように熱心にあなたの救いを求めることができますよう、私たちの信仰の目を開いてください。御子、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。