Sola Gratia

聖霊降臨後第17主日 説教

二回目の受難予告と信従の道

30一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 31それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 32弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

33一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 34彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 35イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 36そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 37「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

イエスさま一行は、北の端のフィリポ・カイサリア地方に始まり、南にある都エルサレムに至る旅を始めました。そして、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムに向かう途中、イエスさまは弟子たちに、《人の子(わたし)は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する》と二回目の受難予告をしました。一回目の予告のときは、弟子を代表してペトロがそういうイエスさまをとどめようとしました。するとイエスさまは非常に厳しい声で、《サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている》(8章33)と叱責したのでした。したがって、カファルナウムへ向かう歩みは重苦しい雰囲気に支配されていました。弟子たちは、わざわざ殺されるためにエルサレムへ向かうイエスさまの真意が理解できないでいました。しかし、その真意をただす勇気がなくて、《怖くて尋ねられなかった》(32)といいます。この旅の間、イエスさまが《人に気づかれるのを好まれなかった》(30)のは、弟子たちに考える時間を与えるためでしょう。イエスさまは弟子たちの先頭を歩き、弟子たちはイエスから離れてぞろぞろと歩いて、イエスさまに聞こえないように何かボソボソと話し合っていたものと思われます。

弟子たちは怖くて尋ねられないまま、イエスさまの受難について彼らなりにこう考えていました。イエスさまの受難予告は、文字通り死ぬことではなくて「死ぬ覚悟で」という意味だ。イエスさまは今、死ぬ覚悟でエルサレムに向かっている。エルサレムにおいて何が起こるのか。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、それを《栄光をお受けになるとき》(10章27)と言う。つまり、弟子たちは、イエスさまがエルサレムにおいて「栄光を受ける」と思っていたのです。しかし、それを本当に手に入れるためには、命を懸けるほどの困難があるだろう。そう考えた上で、弟子たちはイエスさまに賭けたのです。彼らが《だれがいちばん偉いか》(34)と議論し合ったのは、こう考えていたからです。

一同がカファルナウムに到着して、家に落ち着いたとき、イエスさまは、《途中で何を議論していたのか》(33)と訊ねました。《イエスさまは座り、十二人を呼び寄せて言われた》(35)とあります。ここで、わざわざ「座って十二人を呼び寄せて」とあるのは、やりはこの問題はじっくり話し合わなくてはならない大切な問題だと思ったからではないでしょうか。

その問題とは、「だれがいちばん偉いか」ということです。弟子たちは道々、そのことばかり論じていたようです。そしてそれは彼らにとっても後ろめたい議論だったようで、イエスさまから改めて《途中で何を議論していたのか》と問われたとき、《彼らは黙っていた》(34)といいます。なぜなら、「だれがいちばん偉いか」と論じ合うような生き方は、イエスさまの十字架の道と正反対の道を進むことになりかねないからです。

弟子たちは、イエスさまがエルサレムに行くということは、時の権力者・支配者を滅ぼし、支配・被支配の関係を覆すために行くのだと思いこんでいます。つまり、今は奴隷のように虐げられているけれども、その時には自分たちが支配者になるのだ。《後にいる者が先になり、先にいる者が後になる》(マタイ20章16)。このように、《いちばん先になりたい者は、すべての人の後になれ》(35)という言葉に、《すべての人に仕える者になりなさい》という言葉が続いていなければ、この格言は権力を奪うための檄文というようにも理解できます。そういう誤解を生む可能性があります。しかし、ここでイエスさまが語っていることは、トップになるためにビリになれと教えているのではありません。むしろ、ここで重要なことは、支配する者には絶対なるなということであって、メッセージの中心は支配・被支配の構造そのものの否定ということなのです。もし、現実の世界において、どうしても支配・被支配の構造に組み入れられるような状況になるならば、いかなる体制にあろうとも、常に「支配する者」になるよりは、むしろ「支配される者になれ」というのが、イエスさまのメッセージです。

イエスさまは支配される者と共に生き、死にます。これがイエスさまの凄さです。それは無駄であり、犬死にであると考えるのが常識でしょう。その意味でイエスさまは常識を超えています。子供のようになること、子供を受け入れ、子供と関わり、子供を護るということの中に、すべての者に「仕える者」としてのイエスさまの姿が凝縮されています。イエスさまは徹底的にその道を進まれました。そして、神はそのイエスさまを受け入れられました。

そこで、イエスさまは一人の子供を抱き上げて、こう言われました。《わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、・・・わたしをお遣わしになった方(神)を受け入れるのである》(37)。イエスさまは、「いちばん偉くなろう」と傲慢な気持ちを抱かないで、謙遜でありなさいと言うのです。謙遜になるということを、イエスさまはここで、「わたしの名のためにこのような子供を受け入れる者」と言います。ここで、子供というのは、弱い者の象徴としての子供です。大人社会のひずみをまともに身に受けている者の象徴としての子供です。その子供をイエスさまの名のために受け入れるということです。

「イエスの名のために」とは、どういうことでしょうか。パウロも、コリントの教会の人に、「弱い兄弟を受け入れなさい」と勧めているところがあります。そのとき、その理由として、パウロは、《その兄弟のためにもキリストは死んでくださったのである》(1コリント8章11)と言います。それは、キリストはあなたのために死なれた、そのキリストはあの弱い兄弟のためにも死なれたのだ、だからその弱い兄弟をつまずかせてはならない、その弱い兄弟を受け入れなさい、と勧めるのです。弱い自分、罪の自分のために死んでくださった「イエスの名のために」、同じように弱い存在である子供を受け入れる、そうすることがただ一つ私たちが謙遜になれる道なのです。私たちは自分の努力とか決心で謙遜になれることは到底できないことです。

最後にもう一度、聖書が語っている、「低さ」とか「弱さ」についての独特の見方に注目したいと思います。聖書は、決して人間の弱さをいとわしいもの、唾棄すべきものとは考えていません。むしろ反対です。なぜなら、私たちは自分の弱さを通して、初めてイエスさまの恵みを知ったからです。自分が一人の弱い人間であり、罪や過ちを犯す人間であることに気づいてそれを素直に受け止めたときに、初めてイエスさまの恵みを知りました。もし私たちが、ただただ低さを厭い、高さに憧れ、いつまでも人よりも上に立ちたいというだけの人間であったなら、私たちはきっと、自ら十字架に掛かったイエスさまを心の中で嘲笑ったでしょう。しかし、神の恵みにより、私たちは、そのイエスさまの低さは、私を愛するためであった。イエスさまは私を愛し、私が神と共に生きるために、私の人間としての弱さを顧み、ご自分の命を献げてくださったことを知ったのです。ですから、自分の弱さも低さも、神によって受け入れられている。同様に、兄弟姉妹の弱さ、病も、神によって受け入れられているということを知って、初めて私たちは、弱い人の弱さ、低い人の低さを受け入れることができるようになります。決して上から目線でなく、共に生きることができるようになります。なぜなら、神がこの自分の弱さ受け入れ私たちが背負いきれない、罪の重荷を背負ってくださったからです。

イエスさまは、御自身が十字架に掛かり、陰府にまで降ることによって、私たちをそこから贖い出して、愛と自由の世界に連れ出してくださったのです。互いに受け入れ合い、仕え合い、相手の幸福を自分の幸福として共に喜び合う世界です。イエスさまが子供を胸に抱かれたように、私たちもイエスさまの尊い愛を受け入れ、互いに受け入れ合い、助け合い、お互いに感謝し合って生きる世界に、私たちはすでに入れられているのです。

祈りましょう。天の父なる神様。御子が十字架へと歩みを進める真意は、人が人を支配するこの世界から、私たちを愛をもって仕え合う世界へと救い出すためでした。分け隔てない御子の愛によって私たちを育て導いてください。御子、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。