Sola Gratia

聖霊降臨後第8主日 説教

飼う者のいない羊

30さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。 31イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 32そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。 33ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 34イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

53こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 54一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 55その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 56村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

きょうの御言葉は、「五千人に食べ物を与える」と「湖の上を歩く」という二つの奇跡を囲う前書きと後書きです。

《30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。》

さて、きょうの御言葉は、《さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した》、と始まります。この章の初めで、イエスさまは十二人の弟子たちを二人づつ組にして伝道に遣わしました。これはイエスさまご自身が直接に訪れることができなかったガリラヤの各地に神の国の福音を宣べ伝えるためでした。そして、いま伝道旅行に派遣されていた弟子たちが、その旅行を終えて、イエスさまのところに帰って来て活動報告をしています。

その報告内容は記されていませんが、イエスさまと同じように、弟子たちは体制的な宗教権威から激しい批判や迫害を受ける一方で、ガリラヤの民衆は周りに集まってきたことがうかがえます。弟子たちは疲れ果てたことでしょう。イエスさまはそれをよくご存じで、弟子たちをいたわります。《イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである》。

それで、弟子たちは休息を取ることになりました。《そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた》。人がいないはずのところに着いてみると、群衆がすでに待ち受けていました。イエスさまはずっと群衆に追いかけられる状況が続いてきましたが、今や弟子たちも追われるようになったのです。

そこでイエスさまは、疲れている弟子たちのことを気遣って、ご自身が群衆の相手をされました。《イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた》。

イエスさまが群衆の相手をしてくださったのは、この「深く憐れむ」心があったからです。それがイエスさまの原動力です。この「深く憐れむ」という言葉は、原語では人間の内臓を意味する言葉です。もしもその人を放っておいたら、自分の内臓が痛んでしまうという意味です。それほど強い感情を表す言葉なのです。日本語にも「断腸の思い」という慣用句があります。

この言葉は、福音書の中で何度も出てくる言葉ですが、神やイエスさまにしか使われない特別の言葉です。イエスさまが病の人を憐れんでくださる。群衆を憐れんでくださる。そういう形で使われています。例外として、神またはイエスさまを指しているたとえ話にも用いられています。

「善いサマリア人」のたとえ話がその一例です。ある人が追いはぎに襲われて半殺しの状態になってしまいます。エルサレムの神殿で礼拝する仕事をしている祭司が通りかかりますが、道の向こう側を通って行ってしまいます。祭司の手助けをするレビ人も通りかかりますが、やはり道の向こう側を通って行ってしまいます。そこへ、善いサマリア人が現れます。この善いサマリア人は、旅の途中でしたが、その旅を少し中断して、半殺しにされた人を助けます。いったいなぜ助けることができたのでしょうか。聖書はその理由を、この善いサマリア人が《その人を見て、憐れに思い・・・》(ルカ10章33)と語っています。この「憐れに思い」は、原語では「深く憐れみ」と同じ言葉です。深く憐れんだ、それが善いサマリア人を動かした原動力です。

いったい何が私たちが生きているこの世の中を動かしているでしょうか。人を思いやる憐れみの心でしょうか。残念ながらそうだとは言えません。富の力が、あるいは権力が人を動かしています。さらには、人情から動く人もいますし、世話をしてもらったからと動く人もいます。周りからの自分の評価が気になって、動かざるを得ないという場合も多いでしょう。

しかし、神が動かれる理由は、これとはまるで違います。原動力は憐れみの心です。なぜイエスさまは世に来てくださったのか。それは、私たち人間のことを深く憐れんでくださったからです。神ご自身の内臓が痛むほどに、私たちのことを深く憐れんでくださったからです。

イエスさまは、ただ病気の人、倒れている人を見られたのではありません。どんなに健康で意気盛んでも、イエスさまの目から見ると、その人が弱り果て、倒れているように見えたのです。なぜなら、彼らは《飼い主のない羊のような有様》に見えたからです。たとえ見た目には身体が元気で意気盛んであっても、飼い主がいない、神がいないということは、どんなに私たちを弱り果てさせ、倒れさせているかということです。イエスさまはその群衆のために全力を注いで、福音を、つまり飼い主が誰かを語りつづけたのです。

《53 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。》

《こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ》とあります。この湖は、ガリラヤ湖です。ここしばらくイエスさまと弟子たちは、ガリラヤ湖周辺の町々をめぐって活動をしてきて、何度か湖を舟で渡ることが続いていました。嵐に遭ったり、逆風にさらされたり、命の危険が迫った時もありましたが、イエスさまに助けられて、渡ることができました。

ここに、《ゲネサレト》という地名が出てきますが、「ゲネサレト」とは、湖の西岸に広がる、ティベリアスの北、カファルナウムの西の肥沃な地域です。ガリラヤ湖はこの地域の名によって「ゲネサレト湖」とも呼ばれます。

《一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた》。癒しを求めて多くの病人が集ってくることも、自分で体を動かすことができない人のために床に乗せて運んでくるということもありました。

《村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた》。イエスさまに大勢の人が押し寄せている中で、イエスさまの服のすそ(上着のふさ)に触れて癒されるということもありました。

奇跡は神の臨在をあらわす強力なしるしですが、正しく理解しないと、人を誤った信仰に導いてしまいます。人間の欲が私たちをご利益信仰に導き、利己的な人間にしてしまうのです。ですから、イエスさまのすべての奇跡は、十字架と復活を証するものと理解しないといけません。かたくなな、しぶとい人間の罪から救い出されるために、あの十字架と復活を通して、神ご自身の存在を示していただかないと私たちは救われないのです。

《村でも町でも里でも》とあります。この辺りの地方一帯の村や町や里から、至る所から痛みを抱えた者たちが集まってきたのでしょう。もっとも、痛みと言っても、病だけではありません。今も昔も、強い者が支配し、弱い者に痛みを負わせることで、この世の中を成り立たせているところがあります。この世の中では、強い者が弱い者に痛みを負わせています。そのことでこの世の中が成り立っているようなところがあります。

しかし、イエスさまはその痛みを人に負わせるのではなく、自らが負うために来てくださいました。重荷に苦しんでいる者たちを救うためです。決して誰かに負わせることはなさいません。自らが傷を負い、自らが重荷を背負われます。イエスさまはそのようなお方です。

私たちにも様々な痛みがあります。しかしすでにイエスさまが私たちのところに来てくださいました。私たちの痛みや重荷がすでに担われています。私たちはその光のもとで、それぞれの人生を歩んでいくことができるのです。イエスさまは、《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう》(マタイ11章28)と呼びかけてくださいます。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまが、私たち人間に対するあなたの深い憐れみの御心を現してくださったことに感謝します。その愛ゆえに、御子が十字架の苦しみを引き受けてくださったことを、私たちは忘れませんように。御子主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。