Sola Gratia

聖霊降臨後第7主日 説教

洗礼者ヨハネの死

14イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 15そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。 16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。 17実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 18ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 19そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 20なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 21ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。 29ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

洗礼者ヨハネは、イエスさまこそ力のあるお方で、《わたしは水であなたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる》(1章8)と言って、イエスさまを人々に証ししました。イエスさまこそ本当の救いを伝えに来るお方で、自分はその道備えをするために来たのだと言って、イエスさまの偉大さを指し示して、真の救い主のために道を備えました。

そして、イエスさまはこのヨハネが捕らえられたのちに、宣教を開始したのでした。《ヨハネが捕えられた後、イエスさまはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》(1章14~15)。

その後、ヨハネの弟子たちからヨハネが殺されたことを伝えられると、イエスさまは《ひとり人里離れた所に退かれた》(マタイ14章13)と記されています。ヨハネの死を聞いて、イエスさまはご自分の十字架の死をいよいよ覚悟したのです。ヨハネは、イエスさまの宣教開始の道備えをしただけでなく、自分の死を通してイエスさまの死の道備えもしたのです。

では、洗礼者ヨハネの死は、どのようなものだったでしょうか。ヨハネはガリラヤとペレアの領主ヘロデ(ヘロデ・アンティパス)の結婚問題を非難したために捕らえられました。このヘロデは、幼子イエスさまを殺そうとしてベツレヘム周辺一帯の二歳以下の男の子を皆殺しにしたヘロデ大王の息子です。このヘロデが自分の弟ヘロデ・フィリポの妻ヘロディアと再婚したことを、ヨハネが律法違反(レビ18章16)だと批判するので、ヘロデは口封じのためにヨハネを投獄したのです。

しかし、ヘロデはヨハネを捕えはしましたが、《ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた》といいます。ヨハネは人々に悔い改めを迫ったのですから、その言葉はかなり厳しいものであっただろうと思います。しかし、その厳しさの中に愛があたからこそ、ヘロデは当惑しながらも、喜んでその言葉に耳を傾けていたのです。

ところが、自分の結婚問題で非難された王妃ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていました。そして、その機会が訪れます。ヘロデの誕生日を祝う宴会が、死海の東岸のマケルス城で行われたときのことです。その席に、《ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた》とあります。この時代、高貴な身分の娘が人前で踊るのは特異なことです。宴会で踊るのは遊女か女奴隷のすることでした。ここにも、弟の妻と結婚したヘロデをはじめ、ヘロデ王家の道徳的な退廃や、男女関係の乱れを見ることができます。

ヘロデは酔ってもいたのでしょう、上機嫌で《欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう》と言い、さらに、《お前が願うなら、この国の半分でもやろう》と広言します。娘は母ヘロディアに相談すると、《洗礼者ヨハネの首を》と答えた。娘は急いで王の所に戻って、《今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます》と願った。《王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢(城の地下牢)の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した》のです。

ヘロデはヨハネを尊敬していて、本当は殺したくなかった。それだのに殺してしまいました。事件は色々な要素がからみあって起きるものですけれども、この事件は、ヘロデの決心一つでどうにでもなることができたはずです。たった一人の善意が、一人の悔い改めが、自分はしないという決心が、悲劇をくい止めたという場合がいくらもあると思います。ただ一人の善意とか悔い改めが、歴史の流れをくい止めることなどできるわけないと考えがちです。しかし、人間の歴史は、やはり人間が作り出すものであって、一人の決心とか悔い改めが、歴史を変えていくということを忘れてはならないと思います。

パウロはこう言います。《このようなわけで、一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです》(ローマ5章12)。

聖書は、罪というものをただ社会の組織とか、制度とかという、罪を社会構造の問題としてとらえるのでなく、個人の問題としてとらえようとするのです。罪は、このような複雑な世の中になって来ると、個人の力などは大したことではなくなって、罪は構造的なものであることも確かです。しかしそれでも、一人の人間が自分を捨てて、自分の利害を捨てて改革に乗り出さなければ、決して構造を、制度を変えることもできません。聖書は、《ひとりの人によって、罪がこの世に入って来た》と述べると同時に、《ひとりの罪過によってすべての人が罪にさだめられたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶことになったのだ》(ローマ5章12、18)と述べています。このひとりの人とは、イエスさまです。

私たちはこの世に生きている限り、それぞれいろいろな立場、役割を持っています。しかし福音の前に立つとき、神の前に立つとき、そうした一切の立場や役割などを捨てて、ありのままの自分として神の前に悔い改める者でなければなりません。それは、地位の高い人だけではなく、社会的には地位の低い人、力の弱い人も、神の前に悔い改めるときには、そうしたものとをすべて脱ぎ捨てて、自分を裸にして神の前に立たなくてならないということです。つまり、神の前に自分が自分になるということです。

ヘロデがもしそのようにできていたら、彼はヨハネを尊敬していたのですから、彼を殺さずにすんだはずです。しかし王としての権力の座が、みんなの前で王として娘に誓った手前という、その面子がヨハネを殺させることになってしまったのです。そしてこのヘロデは、イエスさまのことを聞くと、《わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ》といっておびえました。このヘロデの不安と恐怖は、イエスさまを殺さないではいられないように駆り立てたのです(ルカ13章31)。

私たちもヘロデと同じく、福音への招きを聞きながら、神の御言葉を聞いて喜びながら、素直に神に立ち帰ることができず、まことの神を恐れないで、世の力に流されてしまう。人の目を恐れて、神の御言葉に耳を塞いでしまう。そんな罪の歩みを繰り返しています。しかしそこに、イエスさまが、生ける神の言葉が、繰り返し語りかけて来ます。イエスさまは、私たちが背いても離れても、いつも神の愛の眼差しの中にあるのだから、神に立ち帰って来るように、と何度も何度も語りかけているのです。そのことを覚えて、ただ神のみを恐れ、神の愛に応えて歩む者でありたいと願います。

祈りましょう。天の父なる神さま。洗礼者ヨハネの身を通して、イエスさまを身を通して、あなたに立ち帰るように働きかけてくださった恵みの御心に感謝します。その御心に応えて、喜びと感謝の内に歩ませてください。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。