Sola Gratia

聖霊降臨後第2主日 説教

聖霊に逆らう罪

20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。 22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。 29しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

《イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった》。「家」とは、ガリラヤ地方での活動の拠点となっていた弟子のシモンとアンデレの家でしょう。イエスさまはこれまで、《時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》(1章15)と宣べ伝え、そのことを証しする「しるし」として、神の力によって、病の癒しや、悪霊を追い出すみ業を行なっていました。そのようなイエスさまの活動を聞きつけて、群衆がイエスさまのもとに集まって来ました。

しかし、その反対に、イエスさまの活動を止めさせようとする、二つのグループがありました。一つは、イエスさまの身内の人たちです。人々が、イエスさまのことを《あの男は気が変になっている》と言っていたので、イエスさまを取り押さえに来たのです。イエスさまは30歳のころ家業を捨てて、あちこちで「神の国の福音」を宣べ伝え、力ある様々な奇跡の業を行ない始めました。しかも、宗教的・社会的に権威のある律法学者たちと論争したり、律法を守らなかったりして、目を付けられていました。こうしたことは、人々には、正気を失くしているとしか考えられなかったのです。イエスさまは、律法を表面的に守ることよりも、その律法の根本の精神である、神の御心に目を向けさせようとしているのですが、律法学者たちは、律法を蔑ろにしていると怒り、《どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた》(3章6)のです。これこそ、身内の人たちが最も恐れていたことした。

もう一つのグループは、イエスさまの言動を監視するために、《エルサレムから下って来た律法学者たち》です。彼らは、イエスさまの反律法的な態度から、《彼はベルゼブルに取りつかれている》と判定を下し、イエスさまが悪霊を追い出し病気を癒していることについては、彼は《悪霊の頭の力で悪霊を追い出している》と断罪しました。

きょうの箇所に出てくる、「ベルゼブル」、「悪霊の頭」、「サタン」、「汚れた霊」はみな、神と人間の最大の敵である「悪魔」の別名です。

これに対して、イエスさまは、二つのたとえで答えます。一つは、イエスさまの悪霊追放は、悪魔の国の内輪もめではない、自分は神の霊によって悪魔と戦っているのだ。もう一つは、強盗は家に押し入ると、まず家の一番強い者を縛り上げてから略奪するように、自分はより強い神の力で悪魔の家に押し入っているのだと答えます。イエスさまが行っている福音の宣教と、さまざまな業は、悪霊の力ではなく、神の力、つまり聖霊なる神の力によるものであるということです。イエスさまの言行において、すでに神の国、すなわち神の恵みの働きかけが始まっています。人々が神の国の福音を聞き、イエスさまを救い主と信じ、罪を赦されるという出来事が起こる所には、そこに聖霊なる神が働いているのです。

このように、たとえで答えた後、イエスさまは厳しいく警告を語ります。《はっきり言っておく。人の子らには、犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う》。この「はっきり言っておく」という改まった言い方は、重大なことを話すときのイエスさま独自の言い方です。律法学者たちが《モーセの座》(マタイ23章1~4参照)に座って下した判定に対して、イエスさまを通して神が判決を下している厳粛さが感じられます。

人間同士が互いに犯す罪は、どのようなものでも、イエスさまを十字架につけて殺すことさえも、神によって赦されるのです。これは、イエスさまを通じて働く神のみ業が、すべての罪をも克服する神の愛と赦しのみ業であるということです。しかし、神の聖霊を冒涜する罪だけは、決して赦されないと言われています。ただ一つ永遠に赦されることのない罪とされる「聖霊を冒涜する」罪とは、具体的にどのような行為を指すのでしょうか。

一般的には、人間が人間に対して犯すのが「罪」であり、人間が直接神に向かって犯すのが「冒涜」だと考えられます。古代のイスラエルでは、人間に対する罪は、贖いの儀式によって赦されました(レビ19章22節)。しかし、神に対する冒涜の場合は赦されることがなく(出エジプト20章7節)、石打などの刑を受ける場合が多かったようです(レビ24章15~16節)。

古代ローマの偉大な教父アウグスティヌスは、ここで語られている罪を、聖霊の働きに逆らって、最後まで悔い改めることを拒み続ける頑なな意思であると考えました。これがいわゆる「死に至る罪」(1ヨハネ5章16)です。アウグスティヌスがここで言う「聖霊に対する冒涜」は、この場合、ある特定の行為を指すよりもむしろ状態を言っています。彼のこの解釈が、一つの標準とされています。

ここで警告されている「聖霊に対する赦されない罪」とは、イエスさまを通して働く聖霊それ自体を「悪霊」と見なし、イエスさまを「悪霊の頭」同様に見なすという罪「冒涜」のことです。しかもここでは、「聖霊」が「汚れた霊」と対置されていますから、単なる言葉や行為のことではなく、霊的に根深い意図的な悪意と拒絶を含むと考えられます。一度や二度、神の赦しを全面的に信じられないで、聖霊を汚すことはあるかも知れません。しかし、聖霊を汚し続ける罪だけは、犯さないようにしなくてはならないと思います。

神の愛と赦しのみ業を「冒涜し」、これを拒み続けることは、「赦し」それ自体をないがしろする行為ですから、このような「冒涜」を続ける者たちには、もはやどこからも「罪の赦し」は期待できない。イエスさまは、彼らにこのように警告しているのだと思います。

ところで、現代は科学が信仰されている時代で、霊的な事柄に関する無関心と蔑視が広まっています。その一方で霊的な事柄に対して無防備のために、さまざまな宗教がわずかな霊的現象によって多くの人を捕らえています。今も迷いの霊が働いています。キリスト教の名を用いるものさえもある中で、神の霊も活発に働いています。

「赦されない罪」とは、いったい何なのか。一人ひとりが自分勝手な空想や思いこみを「聖霊の示し」だと勘違いして、これを自分だけでなく、人に押しつけたら、危険です。個人の誤った聖霊への判断や勝手な思いこみを封じるために、教団の指導者たちによる「指令」が必要だと考えられました。ところが、個人の場合に生じる誤りが、教団の指導者たちには起こりえないという保証はありません。実はこの問題が、きょうの箇所の議論なのです。

イエスさまを非難した人たちは、ユダヤ教の権威として「モーセの座」に座り、イエスさまの悪霊追放の出来事を判定し、人々に公表しました。イエスさまの悪霊追放は、「悪霊の頭による」ものとして断罪されました。神の聖霊を判定する資格と権威を持つ人たち、この人たちこそ、実は、イエスさまから「赦されない罪」を犯す危険性があると警告された人たちだったのです。

現在のプロテスタントの教団でも《聖霊とわたしたちは》(使徒15章28)で始まる命令や指令を出すことが、行われる場合があると聞いています。

実際、イエス・キリストの福音と言っても、現在私たちに与えられている啓示の範囲においては、人間的な欠陥や誤謬や偏見から免れていません。イエス・キリストの福音でさえそうだとするなら、モーセ律法を遵守するユダヤ教を初めとするそれ以外の諸宗教も、同様な誤謬や偏見や原始的な迷信を抱えているのは、仕方がないと思われます。

このような混乱には、霊の質を見分けることが重要になります。しかし、霊の質を見分ける物差しはありません。律法学者たちは律法を物差しにしてイエスさまを計って失敗しました。誤りなく神の霊に導かれるためには、十字架と復活のイエスさまにしっかりと結び付いていることが大事です。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは世を愛し、独り子を世に送り、私たち被造物に対する無条件の愛の御心を示してくださいました。私たちに聖霊を下し、イエスさまの働きの中にあなたの愛と義を覚ることができるよう助けてください。私たちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

(与えられた箇所は20節から35節までですが、この説教では31節以降を省略します。)