Sola Gratia

聖霊降臨祭 説教

弁護者としての聖霊

「15:26わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。 27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」

16:4「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。 5今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。 6むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。 7しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。 8その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。 9罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、 10義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、 11また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

イエスさまは、《人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る》(16章2)と予告すると共に、弟子たちが信仰のゆえに迫害されて法廷に引き出されるときは、聖霊を弁護者として遣わして、弟子たちを助けると約束しました。それが現実となった時代に、この福音書は書かれたのです。

イエスさまは15章26で、《わたしが父のもとからあなたがたに》弁護者(聖霊)を遣わそうと言う一方で、14章26では、《父がわたしの名によって》聖霊をお遣わしになると言っています。この二つの表現があるので、後に、聖霊は父からだけ出るのか、それとも御子からも出るのかが、東方教会と西方教会の間の大論争になりました。しかし、聖霊は父から出て、必ず御子イエスさまを通して私たちのところに来るのですから、御子の立場から表現すれば「わたしが遣わす」ことになります。「父から出る」も「御子から出る」も真理であって、どちらも同じことを言っていると考えて良いでしょう。いずれにしても、15章26は聖霊を理解する上で大事な箇所です。

ここで、イエスさまは、わたしが去ることをあなたたち(弟子たち)は悲しんでいる。《しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる》(16章7)と言っています。なぜ「ためになる」のでしょうか。それは、イエスさまが去って行ってはじめて、復活・昇天してはじめて、「弁護者」である聖霊が来て、いつまでも一緒にいてくださることになるからです。

この世界には言葉と行動によって伝達できるものと伝達できないものがあります。救いの真理はただ単に人間の言葉や行動だけで伝達できるものではありません。福音が伝えられるというのは、人間の言葉の説得力や人間の生き様に対する感動といった次元のことではありません。そこに聖霊が働くからこそ、救いの恵みが伝えられるのです。聖霊が働くとき、《世の誤りが明らかに》され、神の恵みが明らかにされるのです。

つぎに、《その方(聖霊)が来れば、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにする》、とあります。この部分では「世」はおもにユダヤ教世界を念頭において語られています。ですから、「世の誤りを明らかにする」とは、ユダヤ教の法廷に異端者として訴えられているイエスさまを信じるユダヤ人信徒が、聖霊の働きによって、訴えている側の、罪と義と裁きという神と人間に関する基本的な理解が間違っていることを明らかにするということです。

まず、《罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと》と、イエスさまは言い、ます。これは、ユダヤ人たちがイエスさまを神から遣わされた方であると信じないことを指しています。そして、イエスさまを信じるユダヤ人信徒を罪を犯した異端者として裁判にかけ、会堂から追放したり殺したりしています。ところが、聖霊が働かれるところでは、聖霊はイエスさまの神の子としての栄光を啓示し、この神から来られた方に敵対することこそ罪の中の罪、究極の罪であることを明らかにします。

このことがもっとも典型的に起こったのが、パウロです。パウロはイエスさまを信じる者たちを探し出し、逮捕して裁判にかけ、罪ある者として断罪し、鞭打ちの刑などに処していました。ところが、ダマスコ途上で聖霊の激しい働きに接し、復活されたイエスさまに遭遇します。この体験によりパウロは自分が「罪人のかしら」(1テモテ1章15、口語訳)であると悟ります。

次に、イエスさまは、《義についてとは、わたしが父のもとに去って、あなたたちがもはやわたしを見なくなること》と言います。神に敵対することが罪であるとすれば、その反対の神に喜ばれ受け入れられる人間の在り方が義です。その人間にとって根本的な義の本質について、聖霊はユダヤ教会堂が間違っていることを明らかにします。ユダヤ教は、義とは律法を順守することであるとしていました。その結果、イエスさまを律法に違反する異端者として処刑したのでした。ところが、神はイエスさまを復活させて、イエスさまこそ神の御心を行い、神に喜ばれる者として受け入れたことを示しました。

ここの《わたしが父のもとに去って》という言い方ですが、これはイエスさまが復活して栄光の座に上げられたことを指しています。このことによってイエスさまこそが義であると確証されたわけです。

ただ復活のイエスさまは、イエスさまを信じる者には見えますが、イエスさまを信じない者には見えません(14章19)。信じない「あなたたち」には、イエスさまの復活はただイエスさまが「もはや見えなくなる」だけのことでした。

そして、第三に、《裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである》、とイエスさま言います。「この世」(ユダヤ教)はイエスさまを裁いて処刑しましたが、そのとき実は、イエスさまを裁いた「この世(ユダヤ教)の支配者」が、義人を罪ありとして処刑するという不義のために神によって裁かれたのです。十字架の出来事は、実は「この世(ユダヤ教)の支配者」が神によって断罪された出来事なのです。

聖霊をもたない「この世」(ユダヤ教)の指導者たちは、イエスさまを処刑したのも、イエスさまを信じるユダヤ教徒を告発し裁いているのも、律法に従った正しい裁きであると確信しています。しかし、聖霊が働く場では、復活のイエスさまの栄光が見えていますから、イエスさまとイエスさまを信じて言い表す者を裁く行為自体が、神に敵対する行為として裁かれているのが見えています。

ここまで、この教えが語られた時代の状況(16章2)に即して、「世」とはユダヤ教会堂勢力を指すとしてその内容を見てきましたが、聖霊が「世の誤りを明らかにする」ということは、さらに広い射程を持っています。

著者ヨハネは、イエスさまとイエスさまを信じる者を迫害するユダヤ教指導者たちの背後に、「支配者」と呼ばれる霊的支配力、サタンを見ています。そして、イエスさまの十字架において《この世の支配者が断罪される》と宣言します。十字架につけられて復活したイエスさまにおいて、サタンはすでに裁かれ、神の支配が始まっているのです。

しかし、キリストの外の「世」においては、なお「この世の支配者」が支配し、人々を「罪について、義について、裁きについて」盲目の中に閉じこめています。世界の人々は、キリストを拒否することが罪であるとは知りません。義の根源である復活のイエスさまを、見えないからといって無視しています。そして命の領域と死の領域が現に峻別されていることを知らず、死から命に移る道も知りません。

このような世の誤りを指摘し、無知を啓発して、世の人々を真理と命に導くのは「真理の御霊」、神の御霊だけです。パウロもまた、《聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです》(1コリント12章3)と言っています。聖霊によってはじめて、私たちはナザレのイエスさまが「主」であり、神の栄光を体現する神の子であることを、自ら体験した真理として告白することができるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。復活のイエスさまを通して聖霊を送り、私たちにイエスさまが御子主キリストであることを現してくださったことを感謝します。福音の真理を信じ、それを言い表すことができるよう導いてください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。