復活節第7主日 説教
イエスの最後の祈り
- 2021年5月16日(日)
- 復活節第7主日
- ヨハネ17章6~19
6世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。 7わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。 8なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。 9彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。 10わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。 11わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。 12わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。 13しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。 14わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。 15わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。 16わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。 17真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。 18わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。 19彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。
ヨハネ福音書17章の全体は、イエスさまが十字架にかかる前の晩にした別れの説教に続く長い祈りです。パウロが、《復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです》(ローマ8勝34)と言ってるように、イエスさまは私たちのためにこのように願い、このように実現することを祈ってくださっているのです。
この長い祈りは、三つの段落に分かれています。第一段落は、1節に《あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください》とあるように、イエスさまは御自身のために祈っています。十字架の死とそれに続く復活こそ、イエスさまの栄光が現され、子が父の栄光を現す出来事です。第二段落は、9節に《彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです》とあります。世のためではなく、イエスさまの弟子たち(後の使徒たち)のために祈ります。そして、第三段落は、20節に《また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします》とあるように、使徒たちが伝える言葉を受け入れてイエスさまを信じるようになる人々、つまり教会の人々のために祈ります。
さて、きょうの御言葉は第二段落の部分です。この祈りは「世のためではなく」、使徒たちのために祈られたものです。父なる神はイエスさまをこの世に遣わし、続いて弟子たちをもこの世に遣わそうとしています。それは、神が世を愛するからです。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(ヨハネ3章16~17)。それだのに世はその独り子を拒んだのです。「世」とは、弱く罪深い人間性とこれを支配する闇の力を指す言葉ですが、ここではとくに、御子イエスを明確に拒否し続けているユダヤ教会堂を指しています。この世の悪は、弟子たちの内にあると同時に、弟子たちの外にもあります。ですから、イエスさまは、まずは世のためではなく、弟子たちが、自らの内と外の世から守られるように祈るのです。
また、この祈りは弟子たちのためになされた祈りですが、現代において弟子たちの働きを担って、イエスさまの福音を保持し、それを宣べ伝えている私たちのための祈りでもあるのです。
イエスさまはここで第一に、「守られること」を祈られました。11節に《聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください》とあり、15節に《わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです》とあります。イエスさまは御自身が十字架にかかって世を去ることをご存知であり、そうなれば、残された使徒たちが困難な状況に陥ることをも承知していました。今まではイエスさま御自身が使徒たちと共にいて、彼らを守っていました。しかし、イエスさまが世を去られた後、使徒たちはどうなるか。イエスさまは、この使徒たちが守られるように、父なる神に祈られたのです。
では、何から守られるようにと、イエスさまは祈られたのでしょうか。《悪い者から》です。悪い者とは、悪魔・サタンのことですが、それに限りません。私たちをイエスさまの救いから離れさせようとする一切の悪しき力です。困難、苦しみ、嘆き、迫害など。どれも私たちをイエスさまから離れさせる力を持っています。私たちがこのように祈るようにと与えられた「主の祈り」においても、「私たちを誘惑から導き出して、悪からお救いください」と祈るように教えられています。私たちは、絶えず私たちの信仰を奪おうとする悪しき力に脅かされているのです。イエスさまは、そうならないように祈ることを教え、またそうならないように私たちのために祈ってくださったのです。
私たちが今朝こうしてここに集っているのも同じです。私たちには、自分の信仰を守り続けていく力はありません。まことに誘惑に弱く、すぐに弱音を吐きます。しかし、守られています。イエスさまが私たちのために、私たちの信仰がなくならないように祈ってくださっているからです。
第二に、イエスさまは17節で《真理によって、彼らを聖なる者としてください》と祈ってくださいました。これは口語訳では「聖別してください」となっていました。この言葉は汚れを取り除いて「清くする」という意味もありますが、ここでは「聖別する」、すなわち世俗の使用から取り出して神の用だけに献げるという本来の意味で用いられています。ですから、私たちが聖別されるということは、私たちが神の栄光のために生きる者となるということです。世の人がキリスト者に持つイメージ、謙遜で、まじめで、親切でという、そういうイメージの人になることではなくて、神の御用のために、神との親しい交わりの中に生き切る者としてくださいということなのです。
イエスさまの弟子たちを聖めるのは、真理の御言葉の働きによるのです。神が御子であるイエスさまによって語られた言葉こそ真理です。この神の言葉を守ること、この言葉にとどまるのが「真理によって聖別される」ことであす。世から取り出されて、神の言葉という真理に生きるようになることが信仰の大事な目的となります。
この「聖なる者としてください」に続いて、18節《わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました》と告げられていることからも、この聖めを求める祈りが、聖別を求める祈りであることが分かるでしょう。イエスさまによって遣わされた者として、主イエスさまの御業に仕えるために生きる者となるということです。
私たちは、イエスさまによって救われました。それは、心の平安を得たとか、家庭が円満になったとかということではありません。もちろん、神はそのような祝福も与えてくださるでしょう。しかし、イエスさまによって救われたということは、神のものとされたということです。それは、神の御用に仕える者になったということであり、生きる意味と目的が変えられたということなのです。そのために、イエスさまは御自身を十字架の上でささげられたのです。弟子たちもまた神にささげる者として生きるようになる。それが、イエスさまの願い、イエスさまの祈りなのです。
最後に、イエスさまがお語りになった13節の言葉に注目しましょう。《世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです》とあります。イエスさまの喜びとは、父なる神と一つである喜びでしょう。イエスさまは、弟子たちが喜ぶようになるためというのではなくて、「わたしの喜びが弟子たちの内に満ちあふれるようになるためだ」と言われます。この喜びは、世が与える喜びではなく、外から受ける苦しみの中で、外の状況とは関わりなく聖霊によって内からあふれる命の充実感です。私たちは、この喜びにあずかる者として、それぞれの場において、主イエスさまの御業に仕えていきたいと思います。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子の執り成しによって、私たちを守り、あなたのご用に仕える者として召してくださったことを感謝します。この恵みをしっかりと受けとめて、喜びのうちに御業に仕えることができますようお導きください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。