Sola Gratia

主の受難 説教

十字架上のイエス

33昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 34三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 35そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 36ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 37しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 38すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 39百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

前段の25節に、《イエスを十字架につけたのは、午前九時であった》とありますが、ヨハネ19章14によると、ピラトの法廷で十字架刑の判決が出たのが正午ころですから、十字架につけられたのはその後になります。マルコとヨハネでは時間にくい違いがあります。

ともあれ、《昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた》のです。これは日食ではありません。日食は新月に起こる自然現象ですが、過越祭は満月に祝われますので、これは超自然の「しるし」です。古代社会では、神と特別の関係にある者が死ぬときには異象が起こることが広く信じられていたのです。イエスさまご自身もかつて、《それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず》(マルコ13章24)と言っています。つまり、これは、預言が成就したと言っているのです。

イエスさまはご自分のことを《世の光》(ヨハネ8章12)と言われました。この闇は、世の光であるイエスさまを拒絶し、十字架につけて殺そうとしていることがどういうことなのかを示す「しるし」です。イエスさまを失うことは、「命の光」を失うことです。しかし、多くの人はそのことに気づかぬまま、イエスさまがいなくても毎日生きていけるように思っています。そして死という抗うことのできない虚無に飲み込まれていくのです。この3時間に及ぶ闇は、罪がもたらすも、神の裁きを象徴しています。

そして《三時に、イエスさまは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」》。これは《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という意味のアラム語です。この時代のユダヤ人は、旧約聖書で使われていたヘブライ語ではなく、アラム語を話していました。新約聖書はギリシア語で記されていますが、ここは実際のイエスさまの叫び声がその音のまま記されているのです。

近くに立ってイエスさまの言葉を聞いた人々が《エリヤを呼んでいる》と声を上げます。エリヤは旧約を代表する預言者です。預言者マラキは、《見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす》(マラキ4章5)と言っています。義人の苦難にさいしてエリヤが助けに来るという信仰があったので、イエスさまがエリヤを呼んでいると勘違いしたのです。

イエスさまのこの叫びは、神の子であり、神と共に歩まれた方が、私たちの罪を負い、私たちに代わって裁かれ、捨てられて、贖いを成し遂げたことを宣言するものです。罪がもたらす神の裁きは、神から遠ざけられることです。このとき、神は大祭司の側にいたのでも、ピラトの側にいたのでもありません。あくまでもイエスさまの側にいたのです。そのことはイエスさまの復活によって証明されます。神はあくまでも、人と成った御子イエスさまの側にいて、共に痛み苦しんでいるのです。

すると、《ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした》。すぐに息を引き取らないように酸いぶどう酒を飲ませようとしたというのです。しかし、イエスさまは声高く叫んで、ついに息を引き取られました。このとき、イエスさまは、《成し遂げられた》と叫ばれました(ヨハネ19章30)。父から委ねられた使命を完成したのです。

そのとき、《神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け》ました。この垂れ幕というのは、聖所と至聖所とを分かつ幕です。この幕は、人々を神の臨在する至聖所から隔てる幕であって、一年にただ一度だけ贖罪の日に、この幕は開けられます。その日、大祭司が贖罪の儀式を行うために至聖所に入るのです。この贖罪の日の儀式は、この一年、贖われなかった罪を贖うためのものです。この垂れ幕はかなり頑丈な幕であったようです。それが上から下に裂けたのです。ここは原語では「裂かれた」という受け身の表現になっています。まさに上から、神の力によって裂かれたのです。そして聖所と至聖所を分かつ幕が裂けたのは、イエスさまの十字架によって、完全な贖罪が成し遂げられ、いまや神殿の役割が終わったこと、そしてイエスさまの十字架の贖いのゆえに、人々が直接に神と交われる時代が始まったことを示しています。

ヘブライ9章は、こう解説しています。《しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。・・・けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです》(ヘブライ9章7~8、11~12)。

イエスさまの十字架は、神と私たちを和解させ、あらゆる隔ての中垣を取り除く良き知らせです。私たちは、日々、この世の苦しみの中で右往左往しています。神に見捨てられたと叫びたいときもあるでしょう。しかし、イエスさまの十字架のおかげで神との絆が固く結び直されたことによって、どんな苦しみ、困難も、私たちを神さまから引き離すことはありません。ですから、どのような苦しみも、私たちを絶望に至らせるものではありません。苦しみの中にあって、なお、神を見つめることができるのです。

この百人隊長は、イエスさまの処刑を行うローマ兵たちの指揮官です。彼はユダヤ人ではありません。これまで、イエスさまの御業に触れたことも、御言葉を聞いたこともなかったでしょう。そのような意味で、信仰からは最も遠い者でした。彼は自分の職務として、イエスさまを刑場に引き出し、十字架の出来事を最初から最後まで見ていました。その彼がイエスさまが息を引き取られたのを見て、《まことに、この人は神の子であった》と告白する信仰へと導かれました。

この出来事もまた大切な「しるし」です。それは、イエスさまの十字架によって信仰を告白したのが、異邦人であるということです。異邦人は、旧約を知りません。神の子という言葉の聖書的な意味も知りません。しかしそれでも、イエスさまの十字架と出会うとき、信仰が与えられるのです。旧約の神の民がさげすむ異邦人、信仰から最も遠いと思われる異邦人、しかもローマの命令によってイエスさまを十字架につけた異邦人が、最初の信仰告白者となったのです。

この百人隊長は、《もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つ》(ガラテヤ3章28)というキリストの福音を証しする証人です。

この百人隊長は、人間の死に方の中でもっとも悲惨な十字架刑死を遂げるイエスさま、しかも《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》と叫んで死んでゆくイエスさまの姿に、神の子を認めました。これこそマルコがこの福音書を書いて世界に訴えたい事柄でした。十字架につけられて殺されたナザレのイエスこそ、神の子キリストであることを伝えたいのです。マルコはこの異邦人である百人隊長の告白を彼の福音書の締めくくりとして置いたのです。マルコはこの福音書を書いて、イエスさまの働きと受難を世界に示し、「このように」生き、「このように」死なれたイエスさまを、この百人隊長のように神の子キリストと告白するよう、世界の諸民族に呼びかけているのです。

この聖週(受難週)の一週間は、私たちの救いのために十字架を負われたイエスさまを仰ぎ見、思い巡らす大切な時です。イエスさまの十字架によって、自分自身の救いを知り、イエスさまが私たちの救い主であることを確信し、喜び感謝する時なのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまの自らを犠牲にする執り成しによって、私たちがあなたの愛のもとで生きる道が開かれたことを感謝します。あなたの愛に応えて、私たちが信仰と愛と希望のうちに歩むことができますように。御子主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。