Sola Gratia

四旬節第4主日 説教

神はその独り子を与えた

「14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである》。ヨハネ3章16節のこの言葉は、代々のクリスチャンによって最も愛されてきた聖句の一つです。宗教改革者ルターは、この言葉を「小福音書」と呼びました。聖書のメッセージの核心を言い表した言葉だからです。

この言葉は、しばしばクリスマスの季節に読まれます。「神は、その独り子をお与えになった」の《お与えになった》という言葉は、クリスマスのメッセージを端的に語っているからです。神は、この世を愛された。世に住む私たち人間一人一人を愛された。だから人が自分の罪のために滅んでいくのを良しとしなかった。そのために最愛の独り子をこの世界にお遣わしになったということです。

しかし、この《お与えになった》という言葉には、もう一つ、「死に引き渡された」という意味もあります。神が、独り子をお与えになるということは、ただ単にこの世界に遣わしたということではありません。死に引き渡すために遣わされたということでもあります。その命と引き替えに、私たちは命を得ました。ですからこの言葉は、クリスマスの福音を語ると同時に、四旬節(受難節)の福音をも語っており、その向こうには復活が垣間見えているのです。それゆえにこそ、この言葉は福音書全体の要約なのであり、それだからこそ、ルターはこれを「小福音書」と呼んだのです。

このように、この言葉は、それだけで独立したものとして読んでも意義深いものですが、この言葉にももちろん前後の文脈があります。この前後の文脈の中で、改めてこの3章16節を味わいたいと思います。

まず、直前の14~15節にこうあります。《そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである》。この「人の子」というのは、イエスさまのことです。「上げられる」というのは、復活あるいは昇天の栄光を意味するのですが、ヨハネ福音書では、むしろ十字架の上に「上げられる」ことを指しています。そして、イエスさまの十字架に栄光を見ているのです。

この「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というのは、先ほど聞いた民数記21章4~9節の出来事です。イスラエルの民はモーセに率いられて奴隷の家エジプトから脱出しました。しかし、荒野の旅の苦労に耐えかねて、神とモーセに逆らい、モーセを非難します。それで神が炎の蛇を民の中に送られたので、その蛇にかまれて多くの者が死にます。モーセが民のために執り成しをしたところ、神は《炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る》と言われます。モーセは青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げます。この蛇を見上げた者は助かったという物語です。

本来、自分の罪のために死ぬべき人間が、モーセの掲げる青銅の蛇によって、死ぬことを免れ、命を得たということです。もちろんその効果には限界があります。そこで命を得たと言っても、一時的なものです。しかし、それを引き合いに出しながら、ヨハネ福音書は、イエスさまの十字架を指し示します。こちらは一時的ではありません。《信じる者が皆、・・・永遠の命を得る》と言われます。

ところで、ヨハネ福音書を読んでいると気づくことですが、どこまでがイエスさまの言葉で、どこからが福音書記者ヨハネの言葉か、区別されていません。有名な3章16節も一体どちらの言葉なのでしょうか。この新共同訳聖書では、10節からイエスさまの言葉を示すカギ括弧が始まって、それが21節まで続いていますから、イエスさまの言葉ということになります。しかし前の口語訳聖書では、この有名な言葉の直前、つまり15節の終わりでカギ括弧が閉じられていましたから、福音書記者の言葉ということになります。原文ではカギ括弧はありませんから、どちらにも読めるのです。

さて、17節はこう続きます。《神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである》。「裁き」とは、元の意味は「選び分ける」ことです。マタイ福音書では、神が終わりのときに、右に羊を、左に山羊を分けるように、すべての人を裁くと言われます。「裁き」は遠い未来のように思われます。しかし、きょうの箇所は、もうすでに「裁き」がなされている、もう選び分けられていると言います。18節にこうあります。《御子を信じる者は裁かれない。御子を信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じないからである》。

「信じない者は既に裁かれている」とは、一体どういう意味でしょうか。「裁き」というと、私たちは、神が私たちを裁く、私たちが神に裁かれることだと思います。しかし聖書には、人々が神の独り子イエスさまを裁いた様子が詳しく記されています。人間がイエスさまを裁いて、不要な男と判断して、死刑に定めたのです。この人間によるイエスさまの裁きは、今なお続いていることです。私たちは十字架にかけられたイエスを自分にとって必要か不要か選び分けています。私たちのイエスさまに対する態度に、すでに裁きが生じているのです。一方の側からすると、神が私たち人間を裁くわけですが、他方の側からすると、私たちがイエスさまを裁いている。それが聖書の言う裁きです。裁きの責任は神にあると言うよりは、私たちの側にあるのです。

ここで言われていることは、イエスさまを救い主と信じて生きることそのものの中に、裁きからの解放があり、喜びがあるということです。救いというのはそういう状態です。ですから、救いというのは何かつらいことを辛抱して、その報いとして死んだ後に与えられるというようなものではありません。イエスさまのことを知り、イエスさまと共にあること、そのもとに生きることの中にすでに救いがあり、そこから閉ざされていること、その外に置かれていることが裁きなのです。ヨハネ福音書は、ここで、この救いと裁きの関係をはっきりと語っているのです。

次に、19節以下では、光と闇という言葉を用いて、改めて裁きのことが語られています。《光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている》。人間は「光よりも闇の方を好んだ」と記されています。「好む」と訳されている言葉は、原語では「愛する」です。光よりも闇を愛する。それが人間の罪の本質を表しています。人を照らす光は人の悪を照らしますから、そこには人が自分の悪を悟るという「裁き」を伴います。光は照らし出すことによって、その人の悪を暴露し、取り除くのです。ここで語られる「裁き」は、人間の側が神の啓示の光を拒否する選択によって生じます。その人が光に対してとる姿勢こそが、善にせよ悪にせよその人への神からの「裁き」になります。

きょうの箇所の結びの言葉になります。《悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために》。ここに「悪を行う者」という言葉があります。「悪を行う者」の反対は、ふつう「善を行う者」になると思いますが、ヨハネ福音書は「真理を行う者」と言います。闇に留まらず、光の方へ出てくる者を「真理を行う者」と言うのです。ここで言う「真理」は、14~16節で語られている神の子が与える啓示のことです。ここは、「真理を行なってから」神とその御子のもとへ来ることではなく、「行なう」その前に「真理」を「受け入れ」、そうすることで真理であるイエスさまを「知る」ことがなければなりません。なぜなら、「真理」とはイエスさまご自身に他ならないからです(14章6節)。

イエスさまは私たちの家の戸口に立って静かに何度もノックしています。その戸を開くことができるのは、イエスさまではなく、中にいる私たちです。

祈りましょう。天の父なる神さま。私たちの救いのために御子イエスさまを私たちの只中に遣わしてくださったことを感謝します。私たちを御子イエスさまの招きに応えて迎え入れ、「永遠の命」を共に生きる者としてください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。