Sola Gratia

四旬節第1主日 説教

施し・祈り・断食

1「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

2だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。 3施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 4あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

5「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

16「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 17あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。 18それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

19「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 20富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 21あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

《1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

イエスさまの時代のユダヤ教徒は「施し・祈り・断食」を三大善行と考えて、これを遵守していたのを、イエスさまの弟子たちは受け継ぎました。

イエスさまはこの三つの善行について語るにあたって、まず、《見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい》と戒めます。善行をする目的が自分自身と他人に見せることである人は偽善者です。偽善者は、人から賞賛を受けられれば、神のことは正直のところどうでもよいのです。

このあと、順次、三つの善行が取り上げられますが、どれも同じ形式で論じられています。すなわち、「偽善者たちは・・・のようにする。しかしあなたがたは・・・」とあって、「父が報いてくださる」で締めくくられます。

ここで、「善行」と訳されている言葉の原語は「義」です。これは聖書全体を通じて重要な用語です。基本的には人間を超えた神に具わる「正義」すなわち「神の義」を意味します。しかし、神の正義というのは、しばしば貧しい人や苦しんでいる人への救いとなって現れますから、この言葉は、「正義」という意味以外に「憐れみ」「恵み」「施し」という意味にもなります。ですからパウロが「神の義」というときには、神の「恵み」、「憐れみ」という意味に近いです。また、ここで「善行」とあるのは、施し・祈り・断食だけではなく、神を信じる人が行なうあらゆる「善い行い」を意味していると理解できます。

ところで、人は誰でも、多かれ少なかれ心に欠落感とか愛情の飢えを抱えていて、「人からほめられる」ことを欲しているのではないでしょうか。人は、自分が神に愛され、宝物のように価値ある者と見られていて、大事に扱われている(申命記7章6、ローマ8章15)ということが分からないうちは、自分自身や他人の評価によって自分の存在の価値を確かめようとし続けます。そういう意味では、「人からほめられようとして」何事かをなすのは、実は、神の愛を知らないがゆえのことだと言えるのです。

イエスさまがここで教えていることは、施しとは、イエスさまにおいて現れた神に差し向けて行うものだということです。つまり、施しはイエスさまに対する感謝なのです。そのような施しをイエスさまは特に「隠れたこと」と言っています。イエスさまに差し向けた感謝の施しをするとき、私たちの気持ちは、イエスさまと神に対して集中していくため、自ずと自分自身や他人に向いてはいません。ですから、人の目に隠れたことになるのです。

《5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。》

祈りは、神との対話であり、「魂の呼吸」と呼ばれています。祈りなしには信仰生活はできません。

ユダヤ教では、朝と午後と夕べの三回、決められた時祷があり、その時が来れば、場所を問わずに祈るお勤めがありました。また男は立って祈ることが多かったようです(マルコ11章25、1テモテ2章8)。

どんな場合でも、祈りは神に向かってするもので、人に聞かせるためではありません。この、神と私という一対一になって祈る祈りを、教会では「密室の祈り」と呼んできました。《だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい》とある通りです。しかし、これは、一人きりになれる部屋でなくてはならないということではないし、部屋の中でなくても良いのです。とにかく、自分ひとりになって神さまに祈ることのできる状態のことを言っているのです。また、神に祈るときには、必ずひとりでなくてはならないとか、みんなの前で祈ってはならないということでもありません。他人にほめてもらおうとして人々の前で祈ることを戒めているのです。

キリスト者の祈りは、人間の側から語りかけるだけではありません。神の言葉に耳を傾けることも含みます。神の言葉というのは、基本的に聖書を通して語りかける神の言葉です。また、礼拝を通して聞き取る神の言葉です。そのように、キリスト者の祈りは一方通行ではありません。祈りは神との会話だと言われるのは、そのためです。

《16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」》

聖書には、神が断食をするように命じている個所というのはほとんどありません。ただ、旧約聖書のレビ記16章29~31節に出てくる「苦行」と訳されている言葉が、「断食」を指しています。1年に1回、贖罪日と呼ばれる第7月の10日(太陽暦の9~10月ころ)に、すべての人は苦行(断食)しなさいということです。イエスさまの時代にファリサイ派の人々は週に2回断食をしていました(ルカ18章12)。しかし、このことを、神はどこにも命じていません。断食というのは、神の戒めではなく、自発的なものであると言えます。

「断食」は、預言者イザヤによれば次のようなものでした。《わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと》(イザヤ58章6~7)。

ここに明らかなように、断食には、この世の富を分かち与えるという行いが含まれています。つまり「施し」へと繋がるのです。ともかく、このことを受けて、次の、この世の富に関する教えが続いているわけです。

《19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」》

イエスさまは、施しについて、祈りについて、そして断食について語ってきました。そして、偽善者たちは、人に見てもらう目的で施しをし、祈りをし、断食をするが、そうであってはならないと言われました。それらは、施しや祈りや断食をしていることを人に見せて、「あの人は敬けんな人だ」「立派だ」と賞賛を受けることが目的となっていて、神さまに対して行っているのではないと指摘しました。そのように、人々から賞賛を受ける目的でしていることが「地上に富を積む」ことです。施すときも、祈るときも、断食するときも、人に見せてほめられるためではなく、ただ神に対して行われるということが、「天に富を積む」ということです。

イエスさまの弟子たちもこの三つの善行を受け継ぎましたが、ファリサイ派の人々とまったく違う新しい理解がありました。それは、イエスさまが父なる神の意志に一致して、これらの三大善行を完璧に実現しているお方であるということです。こうしてイエスさまの弟子たちは、もはやファリサイ派の人々のように、これらの善行によって神の救いを獲得する必要はないという確信をえました。そしてイエスさまの弟子たちは、信仰においてイエスさまに結ばれた者であるため、イエスさまの善行という土台に支えられて、これらの善行を、自由な感謝の業として行うにようになったのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたは御子イエスさまを通して、私たち一人ひとりに対する広く深い愛を現してくださいました。その愛に応えて、喜びと感謝をもってあなたと共に歩めますように、日々お導きください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。