Sola Gratia

主の変容 説教

イエスの姿が変わる

2六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 5ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 6ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 8弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

きょうの御言葉、山の上で起こった出来事を聞いて、「これは事実ではなく、夢物語が何かだ」と思われた方もいるでしょう。しかし、とてもこの世の出来事とは思われないからと言って、事実ではないとは言えません。先入見を脇に置いて、きょうの御言葉を聞きとりたいと思います。

きょうの箇所の直前にこうありました。《また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる》(9章1)。イエスさまは「神の国」を生きている間に見る人たちがいると言われます。それはいつ実現するのでしょうか。それが、さっそく《六日の後》に実現するのです。つまり、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちが、きょうの箇所に記されている通り、《神の国が力にあふれて現れる》のを、次のように見たのです。

《イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた》。

これは神の国が一部開かれたということです。神の国、天の国が垣間見えたのです。

モーセとエリヤは、いずれも旧約聖書を代表する人物です。モーセは、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活を抜け出し、故郷に帰った時のリーダーです。とくにモーセは旧約聖書の最初の五つの書物を書いた人として信じられてきました。最初の五つの書物には「律法」が記されており、モーセと言えば「律法」の代表者です。また、エリヤは預言者の中の一人として、す。神の言葉を預かって人々に伝える務めをした人です。数多くの預言者たちが現れますが、その預言者たちの中でも最も偉大と言われていたのがエリヤです。つまり、エリヤは「預言」の代表者です。

このことで示されているのは、イエスさまは旧約聖書の律法と預言を成就する方であるということです。イスラエルの歴史を通して神がなさって来た救いの御業はイエスさまによって成し遂げられるのです。

現れた二人はイエスさまと語り合っています。ルカ福音書によれば、彼らは《イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた》(ルカ9章31)のです。最期についてとは、イエスさまの十字架のことです。このことは、神が、イエスさまの十字架を証しするために、旧約聖書最大の預言者と言われるモーセとエリヤを栄光のうちにここに現れるようにしてくださったということです。エルサレムでイエスさまが十字架にかかられる、そこに全聖書の結論があることを示しています。

モーセが荒れ野を率いていったイスラエルの民は、何度神さまの奇跡を見ても、神さまに背きました。エリヤも人々の信仰を取り戻すために働きましたが、それでもイスラエルの人々は信仰から離れていきました。そのように、旧約聖書の歴史は、なんどもなんども神に背く人間の罪の歴史です。繰り返し罪を犯す人間の歴史。そしてそれはそのまま私たちの人生の歩みです。そんな人間に救いはないものでしょうか。その救いは、イエスさまの十字架にあります。そのことをきょうの聖書は証ししているのです。

イエスさまは三人の弟子を連れて高い山に登り、いま見たように、神の国を垣間見せたわけです。そして、そこにモーセとエリヤが復活しているのを見ました。イエスさまが言う「復活」ということを、目の前に見せられたのです。それは永遠の命の世界です。つまりそれは、イエスさまがこれから受けられる苦しみ、十字架の死がもたらすものが何であるかを指し示しているのです。イエスさまが命を捨てられることによって、永遠の神の国が開かれるということです。

イエスさまの顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなり、神の栄光の姿に変わられたというこの出来事を読んで、いくらイエスさまでも、そんな変身はありえようか、と思うかも知れません。しかし、本当は、イエスさまはそのようなお方であるということです。もともとイエスさまは父なる神の子であって、光り輝く栄光の姿であったのです。そのイエスさまが、人の子となられて私たちの世の中に来てくださった。身を低くされて、私たちに仕える者となられたのです。

つまり、人の子であるイエスさまが、光り輝く神の栄光の姿になったのではなく、光り輝く神の栄光の姿であったイエスさまが、神の形であったイエスさまが、人の姿になって低く私たちのところにくだってきてくださったのです。いったい何のために。私たちを救うためです。私たちを救うために、苦しみを受けられ、十字架にかかって命をささげてくださったのです。私たちには考えられないような愛です。しかしそれがイエスさまというお方です。

このイエスさまが私たちをこの天の国の世界へと連れて行ってくださるということです。モーセもエリヤも、イエスさまによってここにいます。私たちもイエスさまによって、この世界に招かれているのです。

モーセとエリヤが消える前に、三人の話し合いを見ていたペトロはこのように言います。《先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです》。ペトロは何を言おうとしていたのか。こう続きます。《ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである》。ペトロはよく分からないながらも、こう思っていました。「仮小屋」を建てよう。イエスさまが、あのモーセとエリヤと語り合う、その素晴らしい栄光に満ちた出来事をいつまでもとどめておきたいと願ったのです。

そんな状況の中、天からの声が響いてきます。《すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け」》。字義とおりに訳すと、「あなたがたはこれ(イエスさま)に聞きなさい」となります。「あなたがた」に対する命令形です。弟子たちに対して、しっかりイエスさまの言葉を聴くように、という声が天から響いてきたのです。

神の国を垣間見るというような特別な経験が必要でだというのではありません。ともすると私たちは、不思議な特別な体験を求めて信仰生活を送ろうと考えてしまいます。しかし神は、《これに聞け》とさとします。イエスさまを通して語られる聖書の御言葉に聞きなさい、ということです。私たちには聖書が与えられています。生きるための御言葉、永遠の神の国につながっている御言葉です。私たちは、何よりも尊い御言葉を与えられているのです。このことに感謝しましょう。

《弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた》。 話し合いが終わると、モーセとエリヤは消えました。イエスさまだけがいつも通りのお姿で残られた。確かに今までのモーセもエリヤも、必要な存在でした。しかし最後は、イエスさまだけが、救いの完成に向けて歩まれます。

「これに聞け」と言われて、どんな声を聞くのでしょうか。さっそく、下山中にイエスさまの声を聴き始めます。《一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた》。

山から降りるとは、栄光が現された場所を去って、人間の罪が支配する世に戻って行くことです。まだイエスさまの復活を見ていない弟子たちが、分からないままこの出来事を語ったとしても、それが、イエスさまの栄光を現すものとはならなりません。ですから、イエスさまの十字架と復活が終わるまでは沈黙が命じられます。しかし、私たちは上からの声を聴きながら、これからの新しい日々を歩んでいくことができるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。不思議なしかし栄光に輝く山の上の出来事をとおして私たちを御国へと招いてくださったことを感謝します。下の世界で苦しむ私たちが救いの御言葉をしっかりと聴き取れますよう導いてください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。