Sola Gratia

主の洗礼 説教

イエス、洗礼を受ける

4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

《4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」》

イエスさまがこの地上で公に活動を始めるに先立って、洗礼者ヨハネが現れて、イエスさまの道備えをしました。4~8節の段落は、このヨハネが、どのような道備えをしたのかを伝えています。

ヨハネは、いかにも預言者の風貌で荒れ野に現れて、《罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え》ました。人々はぞくぞくと荒れ野にいるヨハネの所に来て、罪を告白したということです。ここで《荒れ野》とは、イスラエル南部の「荒れ地」のことではなく、ヨルダン川下流の死海に近い両岸の「農耕に適さず人が住んでいない放牧地」を指しています。

私たち人間はどこか宗教的なところがあって、罪を告白したい気持ちがあるものです。宗教的雰囲気にあこがれて、自分の方から、自分の都合に合わせてなら、罪の告白をして、いい気持ちになりたい、そういう思いを私たちはみな持っているものです。

洗礼者ヨハネは、そういう人々の気持ちを見抜いています。洗礼を受けようとして、はるばると荒れ野にまでやって来た人々に向かって、《蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ》(マタイ3章7~8)と激しく怒ったといいます。ヨハネは人間の悔い改めの実態を見抜いていたのです。ただ自分の誠実さとか、自分の宗教的な感情から、罪を告白し、洗礼を受けたとしても、それだけでは真の悔い改めにはならないことを、ヨハネは十分知っていたのです。それがどんなに真面目であっても、自分の方からというところには、結局は自分の都合に合わせて、というところがあるからです。

ところで、《洗礼者ヨハネが・・・罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた》という言葉に注目しましょう。これは不思議な表現です。洗礼は施すべきものであって、宣べ伝えるべきものではありません。しかしヨハネは「洗礼を宣べ伝えた」というのですから、ただ洗礼を施していただけではなく、洗礼の本当の意味について説教していたということだと思います。

ただ洗礼を受けても何にもならない、洗礼を受けるということは、本当に悔い改めることで、悔い改めの実を結ぶことなのだ。これは、罪の赦しを得させるための洗礼であり、罪の赦しを目指す洗礼なのであって、洗礼それ自体に何か魔術的な効果があるわけでないのだ。このように説教していたのではないでしょうか。

そして、この洗礼の意味を説くこと以上に、ヨハネが何よりも言いたかったことを、マルコはこう書き記しています。《わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる》。つまり、ヨハネは自分の水による洗礼の限界を宣べ伝えていたわけです。後にイエスさまはマタイ11章7~15節でこのヨハネのことを、彼は《預言者以上の者である》、また、《およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった》と言って評価しています。

洗礼者ヨハネは人間として最高の真面目さと誠実さをもって神の正しさを説きました。そしてヨハネのすばらしいところは、そう説教しながら、人間のもっている真面目さとか誠実さとかの限界も同時に知っていて、それを人々に説き、水による洗礼の限界を説き、人間の真面目な悔い改めの限界を示したことです。そのようにして、神から来る本当の救い主であるイエスさまを証ししたということです。ヨハネの真面目さは、あのファリサイ派の人たちの真面目さとは違って、本当に謙遜な真面目さ、自分の限界をよく知っている真面目さです。

私たちは真面目に誠実に生きなければなりません。しかし同時に「ただ誠実であればよいのか」と、絶えず自分自身に問いかけていかなくてはならないのです。救い主イエスさまから、聖霊の洗礼を受けたいと切に願います。

《9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。》

イエスさまが公の活動を始めたのは、およそ三十歳になったころでした(ルカ福音書3章23参照)。イエスさまは洗礼者ヨハネの所に行って、ヨルダン川で洗礼を受けました。そしてそれからすぐに、荒れ野でサタンの誘惑に遭われたということです。この洗礼とサタンの誘惑の二つは、イエスさまが人間として生きたことの本質を集約する出来事です。

ここで大事なことは、洗礼を受けてから、サタン(悪魔)の誘惑に遭われたのであって、その逆ではないということです。つまり、あらゆる誘惑に合格してから、その卒業証書を貰うようにして、洗礼を受けられたのではないということです。洗礼を受けるということは、これから自分は生涯父なる神に頼って生きていきますという宣誓の行為なのです。

マルコは、《そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた》と記しています。おそらく、イエスさまは洗礼を受けに来た民衆の中の一人として、ヨハネから洗礼を受けたのでしょう。このイエスさまが神の子であるとか、救い主であるとか、誰も、ヨハネさえも、気づかなかったことでしょう。天が裂け、聖霊が鳩のように降って来るのを見たというのも、イエスさまだけがご自分ひとりでそういう体験をしただけであって、ほかの人は誰も気がつかなかったことなのです。ですから、この時の話は、後で弟子たちがイエスさまから聞いたものだということです。

そして、そこにこの洗礼の大事な所があるのです。洗礼を受けるということは、一人の無力な人間として、ただの人として、神の前に畏れおののいて立つということ、そこに何の資格も持ち出さないで、ただの人として神の前に立つということです。罪人のひとりとして立つということです。

このヨハネの洗礼は、罪の赦しを目指す《悔い改めの洗礼》です。ですから、私たちがこの洗礼を受けるには、自分の罪を悔いるということが必要でしょう。悔い改め無しの洗礼はありません。しかし、イエスさまは《罪を犯さなかったが》(ヘブライ4章15)とありますから、イエスさまは、あの時こういう過ちをした、この時こういう罪を犯したという悔い改めをしたわけではなかったでしょう。この時のイエスさまの洗礼は、いわば幼児洗礼のようなもので、具体的な罪の告白が伴うものではなく、ただ神の前に立ち、これから神の恵みのもとで生きていきますという告白としての洗礼だったのではないかと思います。そして、洗礼の一番大切な点も実はそこにあるのです。罪の告白が大事なのではなく、これから自覚的に神の恵みと導きを信じて歩みますという表明が大切なのです。自分はどんな時にも、神に信頼し、必ず神が助けてくださることを信じますと告白して、洗礼を受けるのです。

イエスさまは徹頭徹尾、人間として私たち人間の低さに立たれました。そしてヨハネから洗礼を受けられました。それが神のみ心に適い、天から聖霊が降り、《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という父なる神からの宣言があったのです。この父なる神の保証こそが、イエスさまの歩みを揺るぎないものとして支えることになったのではないでしょうか。このみ言葉は、イエスさまが悪魔の誘惑に勝利したからでも、何か献身的な業をしたからでもなく、ただ一人の人間として民衆の一人になりきって、ヨハネから洗礼を受けたというだけなのです。神の子であるイエスさまはこの洗礼によって、共に洗礼を受けた人々とひとつに連帯されたのです。

イエスさまは洗礼を受けて、神のみを畏れ敬うという信仰を与えられて、その洗礼という武器を与えられてから、悪魔の誘惑に遭わせられ、本当に神のみを信じ通すことを、身をもって体験させられたのです。そして、洗礼を受け、悪魔の誘惑に遭うが、イエスさまがいよいよ公に救い主としての使命を歩み始める準備の時だったのです。

イエスさまは自ら洗礼を受けることによって、後の私たちの洗礼の基礎を据えてくださいました。私たちは洗礼によってキリストに結ばれるのです。すなわち、キリストと共に死に、キリストと共に生きる者とされるのです。聖霊が働いてくださり、私たちは神の子として新しく生きる者とされるのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。御言葉を通して伝えられる主エスの救いの御業と、今も主イエスが私たちと共にいてくださる恵みを感謝します。主をわが救いと信じ、主と共に今を生きる喜びで、私たちの心を満たしてください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。