降誕節第2主日 説教
キリストの恵みと真理
- 2021年1月3日(日)
- 降誕節第2主日
- ヨハネ1章10~18
10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
きょうは14節の御言葉を中心に学んでいきたいと思います。14節前半は、《言は肉となって、わたしたちの間に宿られた》と語っています。「肉となって」とは、肉体を取る、目に見える形になるということです。「言は人間となって」でも「言は体となって」でもよかったはずですが、なぜ、わざわざ「肉」という言葉を選んだのでしょうか。ギリシア語では、人間の食べる「肉」には別の言葉があって、ここの「肉」は人間に関する言葉です。その意味は広く、人間の肉体、人間全体、人類全体までの幅広い意味があります。しかし、人間の肉体の弱さと関連して使われるが多々あります。例えば、イエスさまが十字架にかかる前夜、ゼツセマネの園で祈られたときです。弟子たちにここで祈っているようにと言って、イエスさまは少し離れたところで独り祈ります。イエスさまが弟子たちのところに戻ると、弟子たちは疲れ果てて眠っていました。イエスさまは、《心は燃えても、肉体は弱い》(マタイ26章41)と言われます。パウロも、人間としての自分を見つめて、《わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています》(ローマ7章18)と言います。私たちも同じように、自分の肉の弱さを覚えることもあると思います。年を取ると、肉体の衰えを感じてきます。さまざまな欲があるのも、この肉体があるからだと言えると思います。
イエス・キリストが生まれたことを、ヨハネ福音書は、「肉となって」と言い表します。キリスト教用語でこれを「受肉」と言います。肉を取り、見える形になった。神が人間の弱さの象徴である肉を受け入れてくださったことを表しています。その背後には、一体どんな意味があるのでしょうか。言が肉となった、その背後にあるものは、イエス・キリストの十字架の死です。
見えるものになるということは、必ず例外なく、それはなくなるということを意味します。パウロはこう言います。《見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです》(コリント二4章18)。肉となったからには過ぎ去らなくてはなりません。神自らが受肉を、十字架での死を選び取ってくださり、私たちのところに来てくださった、ということです。
私たちはこの世に生かされている中で、いろいろな問題を抱えて生きていかなければなりません。そのような私たちのところに、イエスさまが来てくださった。それも肉を持って、痛みの分かるお方として、実際に傷んでくださるお方として、私たちのところに来てくださった。私たちの苦しみや重荷を代わりに担い、十字架で死ぬために来てくださった。これが神から私たちへの最大の答えなのです。どんな問題に苦しむ者であろうと、神から私たちに与えられている答えがこれなのです。「イエス・キリストはあなたのために肉となったのだ」、「あなたのために十字架で死なれたのだ」、これが私たちに共通に与えられている答えであり、救いなのです。
さて、14節後半は、《わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた》と記されています。実は、17節にも、《恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである》、と「恵み」と「真理」が並んで出てきます。このように二つのものを並べたとき、ギリシア語では、後に置かれた「真理」が、先に置かれた「恵み」を説明するという語法があります。つまり、「恵み、すなわち真理」です。「恵み、それこそが真理なのだ」ということです。聖書は、人間は神の恵みを受けて生きる、それが真理に生きる者の生き方であると言っているのです。
真理を知ることももちろん大切なことですが、真理に生きることこそが何よりも大切なことです。私たちも神のみ前で自分の生き方を省みてみると、自分の生き方がどこか歪んだ生き方であったことに改めて気付かされます。神に対しても人に対しても、立派に胸を張って自分の生き方を見せることができません。そんな生き方しかできない私たちを、聖書は「罪人」と言います。私たち人間は、神のみ前に罪人です。
どうしても真っ直ぐに生きることができない、罪人の私たちに残された道は、赦していただく道だけです。赦されること、それは恵みです。その恵み、それがすなわち真理なのだということです。私たちは罪人のゆえに、恵みを受けなければ真理に生きられません。聖書は、恵みを受けて生きることこそ、真理の生き方であると言っているのです。
聖書にはその真理が書かれています。そしてその真理に生きよと奨められています。福音書に書かれている出来事やイエスさまの言葉から真理を知ることができます。例えば、イエスさまはあるときこう言われました。《わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする》(8章31~32)。どうしても罪を犯してしまう、罪の奴隷になっている私たち人間が、真理によって自由になるということが言われています。また、イエスさまは別の箇所で、《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》(14章6)と言われました。このようなイエスさまの言葉をたどることによって、私たちは真理を知ることができるのです。
「恵み」の出来事についてもたくさん記されています。例えば、8章に出てくる「姦通の女」は死刑に定められる可能性のある罪を犯しました。しかし最後のところで、イエスさまは彼女に言います。《わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない》(8章11)。この赦しの出来事は、恵みの出来事であり、真理の出来事です。
「恵み」という言葉はきょうの箇所の16節にも出てきます。《わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた》。16節前半に《満ちあふれる豊かさ》という言葉が出てきました。この言葉は、充満、溢れ出すという意味です。器に水を注ぐと、その器に入りきらないで溢れ出す。そういうことを表す言葉です。16節後半に《恵みの上に、更に恵みを受けた》とあります。「恵み」という言葉がここに二度も出てきます。このことは、二通りに理解できます。
一番目の理解は、最初の恵みと二番目の恵みは違う恵みであると考えます。直後の17節がまさにそのことを言っています。《律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである》。モーセを通して神から与えられた律法は、生きるガイドラインであり、恵みとしてありがたいものでした。しかし、その恵み通りには生きられませんでした。そこで二番目の恵みが、イエス・キリストを通して与えられた恵みです。それが一番目の理解です。
二番目の理解は、恵みは二つだけではなく、次々と繰り返して起こるのだと考えます。海辺に波が次から次と、何度も何度も押し寄せてくるイメージです。そう解釈すると、16節前半にある「満ちあふれる豊かさ」という言葉と非常によく合います。水が溢れる、波が何度も押し寄せる、そのように、恵みが溢れるほどに注がれている、と理解するのです。
このように、「恵み」は二通りの意味で理解できます。この豊かな恵みを受けて生きる者こそ、真理に生きる者です。私たちは真っ直ぐには生きられず、歪んだ生き方しかできません。そんな私たちにとって、どこに真理があるでしょうか。自分が罪人であることを素直に認め、悔い改め、神に赦していただくことです。神は私たちをイエス・キリストの十字架のゆえに、赦してくださいます。その赦しの恵みの内に生きること、それが真理です。私たちが赦された者として歩むこと、その生き方が真理を生きるということになるのです。
きょうのみ言葉は、《いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである》と結ばれています。この御子にある恵みと救いを、聖書は私たちに証ししているのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。肉の弱さをもつ人の世に御子を遣わし、私たちが御子にある恵みと真理の内に生きる道を備えてくださったことを感謝します。新らしい年も御子と共に歩み通すことができますよう私たちを祝福してください。御子、主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。