Sola Gratia

聖霊降臨後第16主日 説教

ぶどう園の労働者のたとえ

1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11それで、受け取ると、主人に不平を言った。 12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

イエスさまは数々のたとえ話を語っていますが、それらはすべて神とその恵みの働きを指しています。そうしたたとえ話の中で、とくに神がどのように人間を支配するのかを指す場合、《天の国は次にようにたとえられる》と言って語るのです。神がおられるなら、どのように働いているのかは、私たちにとって大事なことですす、誰もがそれとなく関心のあることだからです。

そこでイエスさまは、神が支配するという働きを、ある家の主人がぶどう園に労働者を雇い入れる様子にたとえています。ですから、このたとえでは、主人が人々を雇うという動きに焦点があります。労働者がぶどう園でどのような働きをしていたかは一切語られません。

イエスさまは神の支配を、それはちょうどある家の主人がぶどう園で働く労働者を求めているようなものだと言っていますから、天の国はいわゆる極楽とか桃源郷といったものとは違います。神は、神の民を形成するための奉仕者を求めつつ、支配していくのです。ですから、救われるとは、神の民に加えられることですが、同時に神の民を形成するために用いられて奉仕するということでもあるのです。そしてそうした奉仕は、ぶどう園での仕事が収穫に向けての仕事であるように、喜ばしいものです。神の民が真実に神の民へと完成する将来を望み見つつ奉仕するからです。

たとえの中で主人は労働者を雇うために広場に出向いています。実際にそういうこともあったでしょうが、ふつうは主人が労働者を雇用するために直接に来ることはありません。このたとえで、あえて主人が直接出向いて労働者の募集にあたっていると言うことで、イエスさまは神自らがやって来て招いていると言っているのです。そして神自らがやって来るとは、空想的なことではなく、イエスさまにおいて実際に神が来られたことを指しています。

したがって、聖書の神は、どこか遠い所にいて動かぬお方ではなく、人間に向かって動いているお方であると言っているのです。聖書の神が働いているお方であることは、たとえの中で、主人が、夜明け、9時、12時、3時、5時と一日の内に五回も人々を雇い入れていることで強調されています。これは、普通あり得ないことです。つまり、イエスさまはこのあり得ないことを語ることによって、神の働きを語っているのです。つまり、人間が人生の晩年に「時すでに遅し」と思う時であっても、神はぶどう園へ招くのです。救いには遅いということはありません。

主人は労働者を雇うときに、報酬を約束しています。一日一デナリオンです。これは当時の相場であって、ごく普通の金額です。しかし、ここでは金額は問題ではありません。主人が労働者に報酬を約束することによって、労働者を奴隷のようにではなく、人間として扱っていることが大事です。

そしてこの時、イエスさまは主人と労働者のやり取りも語っています。まず《何もしないで広場に立っている人々がいた》と言われています。それは3節では状況説明として言われ、6節では主人の質問として繰り返えされています。そして7節では、5時頃に雇われた人々が、主人の質問に対して《だれも雇ってくれないのです》と答えています。

《何もしないで立っている》のは、気楽でいいというだけでは済みません。人は、何のために生きるのか、また何をすべきであり、何ができるのかが分からないと不安です。まして《だれも雇ってくれない》とは「必要とされていない」ということであって、その不安は極限にまで達します。つまり誰からも必要とされないような自分というものは、自分も必要でない、という瀬戸際まで追いつめられるのです。このように不安は人の心を蝕み、虚無的な方向や享楽的な方向へと走らせます。だからこそ、主人は、《あなたたちもぶどう園に行きなさい》と言うのです。つまり「あなたたちも必要とされている者たちである」ということです。このように、神は御自分の民を形成するために、絶えず人々を招き入れるのです。

そしてこのような神の招きによって、「先の者」と「後の者」が生み出されてきます。夜明けに来た者は一番先に来た者であり、5時に来た者は一番後に来た者です。したがって、先と後は、神が招くことによって生まれた順番であって、先や後は、人間の間での優劣とはまったく関係ありません。

8節からは、たとえ話の後半です。夕方になりました。一日の労働が終わり、主人から日当を受け取る場面です。主人が報酬を支払うやり方は、私たちの常識とまったく違います。

第一に、報酬の支払いの順序が逆です。最後に雇われた者から始まり、次に3時、12時というように後から来た者から順に報酬が支払われます。夜明けから5時に至るまで、それぞれ雇われた時が違います。ですから、労働時間の長さを考慮して、一番長く働いた者から報酬が支払われるのが平等のはずです。ところがイエスさまはあえて逆にしています。

第二に、その報酬の金額が問題です。5時に雇われた者に対しても夜明けに雇われた者に対しても同じく一デナリオンが支払われました。これは異常なことです。そこで先に雇われた者たちが不平を言うのも良く分かります。《最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中と同じ扱いをするとは》。この不満は当然のように思われます。主人のやることは不平等であり、不当です。しかしそのように判断する時、私たちは「人間の行いとそれに対する報酬」と考えています。この考え方は、この世で通用するものです。

けれども、主人が《最後に来たこの連中》にも一日一デナリオンを支払ったということは、そもそも主人は「労働とその対価」という枠で考えているのではないことを示しています。主人は最後に来た者にも一デナリオンを支払っていますから、この者も一日中ぶどう園で働いたと見なしているということになります。そしてこのことは、実は、夜明けから働いた者も同じことなのです。というのは、ぶどう園で働くことは、神の民を形成するための労働のことを指していますから、神の目から見れば人間のどんな立派な活動も欠点ばかりだからです。ですから、大事なことは、その報酬は労働に対する対価ではなく、神がその欠けのある奉仕を十分なものと見なしてくださったものであるということです。つまり一デナリオンは、正確には、「あなたもまたわたしのために働いたと見なした」という恵みのしるしに他なりません。このように地上では「行いとそれに対する報酬」という枠組みで考えますが、神の支配においては「恵みとその恵みのしるし」ということになるのです。

弟子たちは自分たちを「先の者」として考え(19章27)、自分たちやファリサイ派の人々が自らの行いによって天の国に入って報いを受けるはずと考えました。しかし、人の救いは、自分の行いではなく、神の恵みがもたらすのです。神はまさに《自分のものを自分のしたいように》する自由を持っているのです。救いは、神の自由な恵みによって与えられることです。このことを、「御心のままに」救ってくださいと祈って来たことに学びたいと思います。

祈りましょう。天の父なる神さま。最後の者をも受け入れ、先の者と等しく救いの恵みをお与えくださる、広く大きな愛に感謝いたします。欠けの多い私たちですが、神の民としての役割を果たしていくことができるようお支えください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。