Sola Gratia

聖霊降臨後第15主日 説教

仲間を赦さない家来のたとえ

21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。 33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

きょうの御言葉はペトロの質問から始まります。兄弟の罪を赦すのは《七回までですか》と尋ねていますから、ペトロとしては、最大の赦しと寛容を示したつもりでしょう。ところがイエスさまは《七回どころか七の七十倍までも赦しなさい》と答えます。これは、罪の赦しは「490回まで行い、491回目からは赦さなくてもよい」という意味ではありません。イエスさまは、「罪の赦し」は回数で量ることのできるものではないと言っているのです。罪の赦しは、神がイエスさまにおいて行った人格的な行為です。そこでイエスさまはたとえによって、こうした罪の赦しの奥行きの深さを明らかにしようとするのです。

イエスさまは、これから話すたとえ話は、《天の国》つまり神の支配を指すと前もって言っています。神の支配は人間の支配とまったく違います。このまったく違う支配の中に私たち人間は誰であれ生かされているんですが、そのことがよく分かっていません。そこで、たとえを用いて話すのです。

まずイエスさまは、《ある王が家来たちに貸していた金の決済をしようとした》、とたとえを語り始めます。神の支配の下にある弟子たちは、ちょうど家来が王に借金をしているのに似た状況にあると言うのです。イエスさまの時代のユダヤ人たちは罪を神に対する借金と考えていました。主の祈り(6章9~13)でも、罪を「負債」(新共同訳では「負い目」)と言っています。ここで「決済」とは、罪の清算であり、神の公平な裁きのことを指しています。ですから、神の裁きの下に弟子たちはいるわけです。

そこで、《一万タラントン借金している家来が》、王の前に連れてこられました。聖書の後ろの頁に度量衡の説明が付いていますが、「タラントンとは、当時の通貨で、ギリシアで用いられた計算用の単位」です。つまり日々の売り買いの現場では使われず、まさに決済する時に用いられた単位ということです。1タラントンは6000ドラクメです。1ドラクメは1デナリオンと同じで、日雇い労働者の日当です。仮にそれを1万円とすると、1タラントンは6,000万円になります。1万タラントンは6,000億円です。イエスさまの時代の人々には6,000万日分の給料になりますから、約16万年分に相当します。一生かかっても返しきれない莫大な借金だということです。

家来は借金を返すことができません。王は、あなたも妻も子も持ち物も全部売り払って返済しなさいと命じます。罪は必ず取り除かれなければならないからです。そこで家来は王にひれ伏して、きっと全部返しますと約束します。ところが、《その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった》ということです。直ぐ前の王の厳しさを思うと、この王の判断は不可解です。しかし、ここがイエスさまのたとえの特長です。

主君が憐れに思ったのは、なぜでしょうか。それは、家来が返せないはずの借金を返せると思っている、その姿が憐れなのです。罪は神に対して犯したものであるため、罪を返すとは神にふさわしくある他は無く、それは人間に不可能なことだからです。というのは、人間そのものが神に向かって生き、神の喜ぶことを行うのではなく、自分に向かって生き、人間の喜ぶことを行うからです。このように、人間が神に向かって生きることを失ったこと、それを「原罪」と言います。

王の「憐れみ」は単なる気持ちのことではなく、「憐れむ」という神の行為を指します。借金が帳消しになったというのは、罪が取り除かれ、神に向かって生きる者とされたということです。このとき、借金を肩代わりしたお方が神の御子イエスさまです。実際に、イエスさまは神の憐れみをご自身の働きをとおして示してくださったのです。私たちの善良さではなく、私たちの弱さや破れにおいてイエスさまは私たちに結び付いてくださったのです。イエスさまの十字架の死は、そのことを端的に示しています。

イエスさまは、28節から場面をかえて、王に赦された家来の話をします。この家来は、王宮を出ると、《自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会》います。王に帳消しにしてもらったのは6,000億円。それに対して仲間が家来に借金をしているのは100デナリオン(100万円)ですから、60万分の1に過ぎません。ところがこの家来は、自分に借金をしている仲間に出会うと、《捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた》のです。

これは、実際に赦されたのに、その赦しを受け取り損なっている者の姿です。私たちはこの家来を責めるわけにはいきません。私たちも神の赦しの大きさが良く分からないからです。そのため受け止め損なうのです。そのことは「仲間の罪を赦さない」という仕方で顕著に表れてしまいます。神はこのような痛ましい人間の有様を黙って見ているのではありません。イエスさまがたとえ話しの中で明らかにしたように、憐れむのです。イエスさまは、まさに罪と罪をもたらす悪とを十字架において打ち滅ぼしてくださったのです。

さて、他の王の家来たちは、この仕業に《非常に心を痛め》ました。罪の赦しがお互いの間で生かされないときに、こうした痛みが生じます。そして《主君の前に出て事件を残らず告げた》のです。これは、神に告げ口をしたのではありません。自分たちで解決するような事柄ではないからです。罪を赦されたということを、人が本当に受け止めるようになるのは、人間の働きによることではなく、神ご自身の働きによることだからです。そしてそこに、私たちの望みもあるのです。

《そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか』》とあります。ここにイエスさまの言いたいことの中心が語られています。罪の赦し、すなわち神の憐れみを、お互いの間でも生かすということです。ここには教会における兄弟姉妹の交わりが、人間の善意に基づくものではないことが明確に言い表わされています。神の愛を互いに生かし合うのです。

実際に、兄弟の罪を赦すということは、たとえ話の言葉どおりに、何が何でも借金を棒引きにしてやるべきだ、ということではありません。罪の赦しを生かすとは、その人をもキリスト者であると認めて仲間として迎え入れるということです。つまり、罪を犯したいから犯すといったことは、イエスさまの十字架の故にできないことだということを証しし合うのです。そして実害については共同して解決するのです。このとき、なぜ兄弟が罪を犯し被害を与えることになったのかを受け止め合っていくことです。

たとえ話の結びの言葉です。《主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した》。そして、最後にイエスさまは、《あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようにする》、と弟子たち、私たちに語りかけます。こうした御言葉を読むと、威嚇されているような気がするかもしれません。けれども、イエスさまが告げていることは、神の憐れみの働きの外に出てしまったら、生きていけないということです。まず神がイエス・キリストにおいて憐れんで罪の赦しをもたらしてくださった。それを受け取り続け、お互いの間で生かす。こうした憐れみの働きの場に、私たちの生きる道があると言っているのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたが御子イエスさまを賜るほどに私たちを愛してくださったことを感謝します。私たちもイエスさまにならい、神を愛することを通して、隣人を赦し愛する道を歩んでゆくことができるようお導きください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。