Sola Gratia

聖霊降臨後第14主日 説教

兄弟の罪

15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

きょうの箇所の最後に、《二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである》とあります。このイエスさまの約束が、教会を教会とする御言葉です。教会は建物でも、組織でもありません。教会は、二人または三人がイエスさまの名によって集うところに成立します。イエスさまがそこにおられるからです。

もちろん、私たちが一人の時も、イエスさまは私たちと共にいてくださいます。私たちがどんな時も、良い時も悪い時も、喜びの時も嘆きの時も、楽しい時も苦しい時も、イエスさまは私たちと共にいてくださいます。

しかし、イエスさまはここでは教会について語っています。二人または三人がイエスさまの名によって集まる者たちの交わり、そこにイエスさまが共にいて、教会は成り立つのです。

この御言葉を、イエスさまは「教会の赦しの務め」との関わりで語られました。キリストの教会はそもそも何のために建っているのか。イエスさまの救いの御業に仕えるためです。その救いの御業とは「罪人に対する罪の赦し」です。教会は、罪が赦されて神との親しい交わりが与えられるための器です。

教会が生まれ、イエスさまを信じる人々が集うと、そこには必ず問題が生じてきます。教会は天国ではなく、地上の群れ、罪人たちの群れです。教会はけっして何の問題もない理想的な群れではありません。残念なことですが、この地上で起きる様々な問題は、この教会の中にも起きるのです。教会の中から、明らかな罪を犯す人も出て来ます。そのとき教会はどうするのかという話の中で、イエスさまはこの御言葉を語られたのです。

きょうの箇所の前の段落で、群れから迷い出た1匹の羊を、羊飼いが99匹を残して捜しに行くというたとえが語られました。そして、《これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない》(14節)と告げられました。この小さな者が一人でも滅びないようにすることが、教会のあり方であると教えられました。そしてきょうの箇所で、具体的に罪を犯した者に対しての対処の仕方が語られます。この「具体的に罪を犯した者」が「群れから出て行った一匹の羊」です。その人に対して教会がとる対応の目的は、小さな者が滅びることのないようにすることです。

イエスさまは具体的に次の四段階の対処の仕方を語られました。第一の段階は、《兄弟があなたに対して罪を犯したなら、二人だけのところで忠告しなさい》です。兄弟が自分に対して罪を犯したならば、直接その人に忠告しなさい。ここで忠告を受け入れ、悔い改めるならば、それに越したことはありません。互いに和解して、神の御前に感謝の祈りを合わせるでしょう。しかし、その人が忠告を受け入れず、自らの非を認めない場合は第二段階へと進みます。《ほかに一人か二人、一緒に連れて行き》、忠告するのです。そこで忠告を受け入れ、悔い改めるならば、それで終わりです。しかし、それでも本人が非を認めない場合、第三段階に進みます。それが《教会に申し出なさい》です。ここで初めて教会において公になります。教会として対処するため、役員会はその人から事情を聞き、これを忠告、訓戒するということになります。そこで悔い改めるなら、それで終わりです。しかし、それでも悔い改めなければ、第四の段階へと進みます。それが、《その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい》ということです。当時のユダヤ人は彼らを神に背く罪人と見なして、一切関係を持ちませんでした。その人との兄弟姉妹としての交わりを断つということです。これは、教会の伝統で言えば、陪餐停止、さらには除名ということになります。これは「戒規」の制度と呼ばれます。

聖餐には三つの要素があります。贖罪の恵みにあずかること、救いの完成の時に行われる祝宴を想い起すこと、そしてこうしたイエスさまの恵みに共にあずかることによって兄弟姉妹の交わりが与えられることです。

戒規など行う必要がなければ良いのですが、行わなければならない時があります。明らかな罪をそのままに放置することは、教会がその罪を認めることになってしまうからです。ただし、戒規は、罪を犯した者に罰を加えるものではありません。どこまでも、その人の救いのために行われるものです。ですから、本人が悔い改めたならば、そこで終わるのです。

では、第四段階の《その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい》とはどういう意味でしょうか。その人をイエスさまの御手に委ねるということです。私たちは悔い改めを求めて訓戒し、何とか信仰者として立ち帰って欲しいと願って忠告もします。それでも、その人が悔い改めなかったならばどうするかです。残念ですが、人間には人を悔い改めさせる力はありません。悔い改めさせることができるのは神です。私たちにできることは、その人が悔い改めることを願い祈ることだけです。教会には限界があるのです。

そのようなことを地上の教会はしなければならない時があります。教会にそれを行う権能が与えられているからです。それが、《はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる》と言われていることです。これが教会の赦しの権能、鍵の聖務です。イエスさまはこの権能を教会に与えました。「つなぐ」とは罪を確定することであり、「解く」とは罪の赦しを宣言することです。私たちの罪を赦すことができるのは、神とイエスさまだけです。人間にはできません。イエスさまは、それを教会に与えられました。これが「鍵の聖務」が与えられていますから、教会は洗礼を行うことができるし、しなければならないのです。「洗礼」は神によって与えられる「罪の赦し」、「永遠の命」という「見えない恵みの見えるしるし」です。もちろん、洗礼は聖霊の御業です。人間が定めた単なる「儀式」ではありません。儀式によってではなく、聖霊なる神によって赦しが宣言され、現実となります。ですから、洗礼が成立するかどうかは、聖霊なる神の御臨在によります。イエスさまの《二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである》との御言葉は、この赦しの出来事が起きる根拠を示しているのです。

ですから、《また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる》というイエスさまの御言葉も、この関連で理解しなければなりません。イエスさまがここで約束したのは、罪を犯した小さな者が悔い改め、ふたたび神の子、神の僕として健やかに歩むことができるように、その人の罪の赦しを二人で心を合わせて神に祈り願うならば、その祈りはかなえられるということです。ここで二人と言われていることは、本人が求めるというだけではなくて、他の人が必要だということです。そして、イエスさまも共にその中にいて、私たちの祈りを祈ってくださっているのです。

キリストの教会は、神による罪の赦しを宣言し、その赦しに生きる群れとして建てられています。教会は罪人の群れです。しかし、私たちは、自らの罪を神の御前に隠すことなく差し出し、その罪をイエスさまの十字架の血によって清められた者です。このイエスさまの赦しを受けた者の群れが教会であり、その赦しを与えるためにイエスさまはその群れのただ中におられるのです。私たちが主の日の度ごとにここに集って礼拝を捧げているのは、何よりも神から罪の赦しの宣言を受けるためです。きょうもイエスさまは私たちのこの群れのただ中にいて、罪の赦しを私たちに与えてくださっています。

祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまがつねに共にいてくださることを感謝します。私たちがその恵みに与る者として、つねにイエスさまのとの交わりに留まっていられるように、兄弟姉妹が互いに支え合っていけるように、お守りください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。