聖霊降臨後第12主日 説教
ペトロの信仰告白
- 2020年8月23日(日)
- 聖霊降臨後第12主日
- マタイ16章13~20
13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
イエスさまと弟子たちは《フィリポ・カイサリア地方》に行きました。この地方はヨルダン川の水源で、ガリラヤ湖の北40キロほどの、フーレ湖の東北部にあります。中心となる町は元はパネアスといいましたが、領主フィリポがローマ皇帝ティベリウスを顕彰してローマ風の町に整えて、ここを「カイサリア」(皇帝の町)と替えます。その際、地中海沿岸の港町カイサリアと区別するため、自分の名前を加えて「フィリポ・カイサリア」としました。
この地で、イエスさまは弟子たちを信仰の告白に導くにあたって、二つの問いを投げかけました。まず《人々は、人の子のことを何者だと言っているか》と尋ねました。「人の子」とは、一般的に人間という意味ですが、別に二つの意味で使われました。一つは、イエスさまがご自分を指すときに使われました。もう一つは、ダニエル7章13節に基づいて、終末の時に現れると考えられた救い主の称号として使われました。ここでは前の使い方で、「人々はわたしを何者だと言っているのか」と尋ねているのです。
そこで弟子たちはイエスさまに答えました。「人々は洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか言っています。その他、「エレミヤだとか預言者に一人だと言う者もいます。このような弟子たちの言葉から、当時の人々が、イエスさまを預言者と理解していたことが分かります。つまり、人間の立場で知恵を精一杯働かせても、イエスさまが神の子であることまでは到達できず、せいぜい偉大な預言者であるという程度にとどまるということです。
つぎに、イエスさまは《それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか》と問いかけました。しかし、弟子たちは、すぐには答えられません。イエスさまの教えや救いのみ業が、あまりにも豊かで大きかったからです。
そこで、シモン・ペトロが弟子たちを代表して答えます。《あなたはメシア、生ける神の子です》。「メシア」とは「油注がれた者」という意味で、そのギリシア語訳が「キリスト」です。イスラエルでは王や祭司が任職するとき、聖霊の注ぎのしるしとしてオリーブ油を頭にかけました。また預言者は聖霊の注ぎによってその務めに就きました。ですから、メシアとは、祭司・王・預言者という特別な奉仕にあずかるために聖霊を注がれた者のことです。やがてこの三つの働きを兼ね備えた者を救い主として期待するようになりました。
そのメシア(救い主)は神から遣わされた人間であると理解されていましたが、ペトロはここで、イエスさまというメシアは、生ける神の子であると告白したのです。つまり父なる神と同じ性質をもった子であり、神であるということです。「生ける神」とは偶像と対比した表現です。偶像は何の行動もしませんから、死せる神でしかありません。しかし聖書の神は行動する神、イスラエルの民に対して裁きと赦しをもたらすお方です。ペトロはそのような生ける神をイエスさまの内に見出し、信仰を告白したのです。
イエスさまはこの信仰に対して祝福を与えます。まず《シモン・バルヨナ》(ヨナの子シモン)と、わざわざ本名で呼びかけます。そして《あなたは幸いだ》と言って祝福します。なぜなら、《あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ》からです。つまり、ペトロの信仰告白は、人間の経験や知恵から導き出されたものではなく、父なる神が聖霊によって与えたものなのです。順番から言えば、イエスさまが死から復活した後、聖霊が注がれて、《イエスは主である》(Ⅰコリント12:3)と告白するようになるのですが、ここではその先取りとして、神はペトロにこの信仰を与えたのです。
父なる神を本当に知っているのはイエスさまです。そこでイエスさまは神の支配を宣教してきました。その中身は罪の赦しでした。逆にまたそのようなイエスさまを本当に知っているのは父なる神です。信仰告白は、父なる神が聖霊によってイエスさまに救われた者に対して与えてくださった父なる神の特別な知識なのです。この恵みを見て、イエスさまはペトロを祝福しているのです。
ところで、「あなたにとってイエスは何者か」。この問いかけは私たち一人ひとりにも問われています。この問いを避けて通ることはできません。そこに、私たちの救いがかかっているからです。「あなたは救い主です」と答えることは、「私はあなたのおかげで救われます」ということです。
ペトロの信仰告白を受けて、イエスさまは《あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる》と約束しました。「ペトロ」はイエスさまがシモンにつけた渾名です。「この岩」の上に教会を建てるという約束の言葉についてですが、カトリック教会は、《この岩》は直前の《ペトロ》を指すと考えました。そしてペトロを受け継ぐ者としてローマ教皇を立ててきました。それに対してプロテスタントは、「この岩」は「ペトロ」という人間ではなく、ペトロが言い表した信仰告白のことだと言います。この点をいま少し考えてみましょう。
「ペトロ」はギリシア語で、「石、小石」のことです。他方、「岩」のギリシア語は「ペトラ」で、「岩、岩盤」を指します。石(ペトロ)と岩(ペトラ)は材質は同じですが、大きさが違います。イエスさまはここで「ペトロ/ペトラ」という語呂合わせによって信仰告白の出どころを示しているのです。つまり「そこから石が生み出された、この岩」の上に、わたしの教会を建てるということです。イエスさまは、ペトロを始めとするイエスさまを信じる人間に信仰告白をもたらすという、父なる神の一連の働きを、「この岩」と言っているのです。つまり、父なる神はイエスさまによって人を救うと共に、「イエスは神の子である」という信仰をも人に与えてくださるのです。
イエスさまは、このような《岩の上にわたしの教会を建てる》と言います。《教会》はギリシア語で、「呼び集められた群れ」のことです。しかし、人間が集まって教会を創るのではありません。イエスさまが教会を創るのです。そしてそれは、父なる神が人に信仰を与えてくださることによって実現します。それが、つまり、教会は《この岩の上に》建つということの意味です。
そこで、イエスさまによって創られる教会には、《陰府の力もこれに対抗できない》ろいう幸いが与えられています。「陰府」は死者の世界のことであって、神との関係が切れた世界のことです。神との関係が壊れたこの世は、死が力を奮います。しかし《黄泉の力もそれ(教会)に打ち勝つことはない》(口語訳)のです。教会を創り、「教会の主」として教会を維持しているのは、死から復活することによって死に勝利したイエスさまだからです。
このようにイエスさまご自身が教会を創り維持をされるのですが、その中でイエスさまはペトロに役目を与え奉仕を求めています。それは《天国の鍵を授ける》ということです。「天国」は「神の支配」のことです。しかもイエスさまが明らかにした、罪の赦しによる支配のことです。イエスさまは、神の支配に入った群れをご自分の教会として集め、守ってくださいますが、ペトロは、いわばその門番としてイエスさまに仕える者になります。ペトロに与えられた「天国の鍵」を用いることが、「つなぐ」ことと「解く」ことと言われています。これは、鍵のイメージではなく、犯罪者をつなぐ鎖や綱のイメージです。「つなぐ」ことは罪に定めることであり、「解く」ことは罪を赦すことです。したがって、ペトロに託された《天国の鍵》とは、イエスさまがもたらす罪の赦しの福音を御心に従って宣言していくということです。
最後に、イエスさまは弟子たちに、御自分がメシアであることを知らせないようにと沈黙を命じます。人々が誤解するからでしょう。イエスさまがメシアであることは、のちの十字架の死と復活においてこそ十全に明らかにされるのですが、その時はまだ来ていないからです。
祈りましょう。天の父なる神さま。ペトロの信仰告白という土台の上に、ご自身の教会を打ち立てられたイエスさまの恵みに感謝します。私たちは救いの岩から切り出された小石です。信仰を揺るがすことなく歩んでゆけるよう守り導いてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。