聖霊降臨後第11主日 説教
異邦の女の信仰
- 2020年8月16日(日)
- 聖霊降臨後第11主日
- マタイ15章21~28
21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
きょうの御言葉は8節だけの短い箇所ですが、カナンの女とイエスさまが交わす言葉の一つ一つが意外性に富み、その対話に引き込まれます。
《イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた》とあって、場面がイスラエルから異邦人の地へ移ります。エルサレムからイエスさまの活動の調査団がやってきた(15章1)ので、いったん外へ退いたのでしょう。イエスさまは、《だれにも知られたくないと思って》(マルコ7章24)いましたが、イエスさまが町に来られたという噂を聞きつけると《すぐに》(マルコ7章25)、ある女性がイエスさまのおられた家にやってきました。
《すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ》。この女性は、マルコ7章26では《女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった》と紹介されています。彼女は、イエスさまに「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけます。異邦人の女性がユダヤ教の遍歴伝道者に対してこの二重の称号を使うことは、きわめて異例のことです。また、当時の常識では、彼女は異邦人であることと女性であるということで、二重の壁を越える覚悟が必要でした。
彼女の願いは、《娘が悪霊にひどく苦しめられている》ので、《わたしを憐れんでください》ということでした。娘の癒しではなく母親である自分への憐れみを請うていますが、これは、母親の子を思う愛が、娘の苦しみを自分の身に負って、ともに苦境に立たされていたということでしょう。
《しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」》。弟子たちは女性に対するイエスさまの振る舞いを見て、先祖由来の異邦人と女性に対する蔑視の思想を後押ししているものと錯覚して、「この女を追い払ってください・・・」と言ったのです。
イエスさまが憐れみを請う女性に対して沈黙されたことは、私たちにとってもショックです。このあとの言葉も、一見冷たく感じられます。だからこそ、この箇所でのイエスさまの御言葉の深さを味わわなければなりません。
《イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった》。これまで沈黙していたイエスさまは、弟子たちのカナン人の女性への冷淡な言葉を受けて発言されました。イエスさまが言われた「イスラエルの家の失われた羊」は、十二人を任命し遣わす際、どこへ行くべきかをイエスさまご自身が語られたときにも使われた表現です(マタイ10章6)。ここでイエスさまが語られたのも、決してカナン人の女性に対する思惑があってのことだけではなく、事実、イスラエル民族が異邦人に先立って福音が語られる必要を言っているのです。
この女性にとって、異邦人で女性という二つの壁だけでなく、イエスさまはさらに壁を加えました。第三の壁は、訴えに対する「沈黙」であり、第四の壁はイスラエル民族以外の人とは関わらないという言葉です。この四つの壁が彼女の前に立ちはだかります。しかし、ここから、彼女の本当の信仰というものが開花します。
《しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った》。ここでの「しかし」はインパクトがあります。この女性の前に立ちはだかる四つ目の壁は、神の言葉による拒否とも受け取ることができるものでしたが、彼女がとった行動は、あきらめずにイエスさまの御許にひれ伏すことでした。ここでも彼女は「私をお助けください」と言います。彼女の悲痛な願いは当然幼い娘の癒しですが、同時にそれは彼女自身をも救うことにも通じています。彼女のこの言葉は、もはや単に癒しを求めているのではなく、マルコ9章24の汚れた霊に取りつかれた少年の父親のように、イエスさまの前に自分自身の罪と弱さに気づかされた者の告白でしょう。
しかしイエスさまは、《子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない》、と答えます。ここでパンとは、神の救いの祝福を象徴しています。この言葉は、彼女に対してさらなるチャレンジを与えます。第五の壁、それは「犬」と呼ばれる侮辱です。ここで使われている言葉が「小犬」だからと言って、侮辱の度合いが低いわけではありません。彼女の前に立ちはだかるこの壁によって、彼女の願いや娘への愛を越えて、イエスさまという存在に対する本当の信頼(信仰)が試されているのです。
他方、弟子たちもここで、イエスさまのこの態度に同調し、差別的思想をますます加速させるのか、それともイエスさまの真意を悟り、自らの異邦人女性に対する愛のない冷淡な姿勢を恥じるのかが試されているのです。自分を他人よりも上位に置く癖が砕かれなければ、神を知ることもできないし、人に御言葉を伝えることもできません。
私たちも御言葉に聞かずに、自分の常識や状況で判断して御心だと思い違いすることはないでしょうか。イエスさまはつねに私たちがどれほど自分自身が足りない者であることを自覚し、へりくだっているかご覧になっています。状況が悪化しないうちに自らの誤りに気がつき、悔い改めて歩む者とされたいと思います。
《女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」》。私たちの目を覚ますような言葉です。彼女はイエスさまの侮辱的発言に憤慨するどころか、とても謙遜に、そして嫌味なく軽快に受け答えたのです。こういう時にも「あなたは正しい方です」と言うのは、本当に大きな信仰がいります。しかも「パン屑」で十分であると、神の祝福のほんの切れ端であったとしても、それに何にもまさる価値を見出していたことは、イエスさまの彼女に対する賞賛の言葉から明らかです。
この女性の応答には驚かされます。とくに、カナン人をよく知っているユダヤ人にとっては、この出来事は大きなチャレンジであり、《心の貧しい人々は、幸いである》(5章3)というイエスさまのまったく新しい御言葉の真髄を見たのではないでしょうか。ティルスとシドンはイスラエルからすれば、神の祝福の埒外の地です。しかし、イエスさまは、イスラエル民族を超えて、すべての「疲れた者、重荷を負う者」の主であり、心の貧しい人々、悲しむ人々に幸いを与えてくださるお方なのです。
《そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた》。イエスさまに賞賛される信仰とは何でしょうか。それは、とことん自らを低くし、へりくだることでしょう。人は信仰すら神に与えていただかなければなりません。自分には何もないことを認めて初めて神との交わりが始まります。しかし、信仰をも私たちは自分の力のように勘違いし、犬扱いされるような侮辱に耐えられずに、憤慨し、侮辱した相手に報復を願い、呪うことさえ正当化しようとします。イエスさまは人の心をご覧になります。それは、カナン人の女性にとってと同様に、先に弟子とされた者にとってもチャレンジです。
多くの壁をクリアした女性の、イエスさまへの絶対的信頼に対して、イエスさまは《あなたの願いどおりになるように》と言われました。たとえ相手がクリスチャンだとしても、「願いどおりになれ」とは容易には言われないでしょう。私たちの願うことがすべて神の御心に適うとは限らないからです。しかし、イエスさまは彼女の信仰に曇りがないことを、あえてチャレンジを与えることで確認して、「あなたの願いどおりになるように」と応えられたのです。
イエスさまは、《もし信じるなら、神の栄光が見られる》(ヨハネ11章40)と言われました。信じましょう。主の恵みの深さを、力強さを。
祈りましょう。天の父なる神さま。イエスさまの愛を信じて、諦めないで祈ることができますことを感謝します。どうか重い沈黙に遭うときも、あなたが共にいて、行き詰まる私たちに、新しい始まりを示してください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。