Sola Gratia

聖霊降臨後第5主日 説教

わたしのもとに来なさい

「16今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。

17『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。/葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』

18ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 19人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

《「16今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。17『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』 18ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 19人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」》

前段の16~19節は、後段の25節以下が語られた背景を伝えています。のちに「笛吹けど踊らず」ということわざになりましたが、人々は洗礼者ヨハネが語ろうが、イエスさまが語ろうが、まったく聞く耳を持たない、とイエスさまは嘆きます。イエスさまの言葉は必ずしもすべての人に受け入れられたのではなかったのです。

《25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」》

イエスさまはそう嘆きながら、しかし25節以下で、なおも、父なる神に祈り、《天地の主でれる父よ、あなたをほめたたえます》と賛美の声をあげます。それは、そのような中でもイエスさまを救い主と信じる人々も起こされていたからです。《知恵ある者や賢い者》はイエスさまを受け入れませんでした。しかし《幼子のような者》がイエスさまを受け入れました。当時の知恵や賢さは律法についての知識を意味していました。幼子は「無知な者・無能力者」の代表であり、「幼子のような者」とは貧しく無学な人々のことを指していました。世間で評価されているファリサイ派などの人々がイエスさまを受け入れず、世間的な評価を受けない人々がイエスさまを受け入れたのです。イエスさまの活動は人間的に見ればこの点で成功しなかったという見方もできるかもしれません。しかし、イエスさまはこのことの中に神のご計画の実現を見ていました。

ただし、イエスさまはここで、律法の学者たちや律法を学んだ知恵者たちが、イエスさまの伝える御国の福音を悟ることが「できない」、そのことで神を賛美しているのではありません。律法の知識や人間の知恵は、それ自体で大事なものであり、これなしに私たちは正しい歩みをすることはできません。では、イエスさまはそのような知識も知恵も持ち合わせていない無知で「愚かな人たち」のその愚かさのゆえに神を賛美しているのでしょうか。そんなことはありません。

イエスさまがここで賛美しているのは、天地を造られた父なる神が、広大な知恵と知識を含む福音の真理を、そのような無知で単純な人たちに対して解き明かした、イエスさまの福音が幼子のような人たちに「啓示」された、そのことを賛美しているのです。なぜなら、これは人には決してできない神の奇跡だからです。聖書が伝える福音の真理は、簡単なことなのです。イエスさまは復活して今も御霊として生きておられ、信じる私たち一人一人と共にいてくださる。これだけです。子供でも分かります。逆に、聖書に詳しい者、職業的に神のことに携わっている者はイエスさまを受け入れませんでした。彼らは知識の森の中に入り込み、神ご自身の示される現実が見えなくなってしまっていたのです。

ところで27節は、神が幼子たちに現わすというとき、それは直接に現わすのではないと言います。ここには父なる神と御子イエスさまの一体性が示されています。イエスさまが神の御子であることは、天地の創り主である神「だけ」が知っておられて、神以外にだれも知らないというのです。続いて、「父を知る者も、子以外にいない」とあります。ここで「知る」というのは、霊的な交わりによって「知る」ということです。このことは、父なる神を知る唯一の道は御子イエスさまであることを意味します。父はご自分に関する真理を幼子たちに現わしてくださいますが、それは御子イエスさまを通してである。これが父なる神を知る唯一の道であるということです。イエスさまが私たちに知らせてくださらない限り、だれも父なる神を真の意味で知ることができないのです。私たちの信仰はイエスさまによって与えられた一方的な恵みです。

このことに基づいて、28節以降の《わたしのもとに来なさい》というイエスさまの招きがあります。父なる神を知る道はイエスさまを通してしかない。そのイエスさまが「わたしのもとに来なさい」と訴えているのです。

《28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。》

この28~30節はマタイ福音書だけに出てくる御言葉です。「疲れた者」「重荷を負う者」、これは私たちの生きている実際の姿ではないでしょうか。若者は若者なりに、老人は老人なりに、重荷があります。私はまだ学生のころ、「人の一生は重い荷を負うて遠き道を行くが如し」(徳川家康)という言葉を読んで、妙に納得したことを思い出します。人生に重荷は絶えません。

なぜ、そうなのでしょうか。創世記3章17節で、神は人間に臨む悲惨についてこう語っています。《お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ》。原因は私たち人間の罪にあります。創り主なる神に背いて利己的になり、神との正常な関係が壊れたため、さまざまな重荷が人間に臨むようになったのだと言います。

しかし、神はこういう私たちを見捨てず、なおも憐れみ、救い主として遣わされた神の御子イエスさまは私たちの罪を背負い、十字架で命を捧げ、人の罪をすべて償われました。復活されたイエスさまは、今、天の父なる神の右にあって昼も夜も私たちのために、《まどろむことなく、眠ることもなく》(詩編121編4)、聖書と聖霊によって私たちに臨み、いろいろな重荷に喘ぐ私たちを助けようとしておられます。

イエスさまは《休ませてあげよう》と言います。しかしその安息は、その人が背負っている荷物が無くなるとか、取り去られるという意味の安息ではありません。そうではなくて、重荷を負って歩み続けている私たちが、疲れた心と体とを休ませて、再び元気に歩み出すことができるようにしてあげよう。そういう招きです。

イエスさまはこの招きの言葉に続けて、こう言います。29節《わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる》。不思議な言葉です。イエスさまは「休ませてあげよう」と言われました。しかし、それに続く言葉は「すべての重荷を下ろしてゆっくりしなさい」ではなくて、「わたしの軛を負いなさい」と言われるのです。

「軛(くびき)」は、畑を耕すときに、二頭のロバや牛が同じ歩みをし、同じ力で仕事を進めることができるようにする道具です。「軛」も「荷」も「重荷」のイメージですが、イエスさまは《わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い》と言われます。イエスさまの荷が「十字架」であるならば、とても軽いとは思えません。それなのになぜ軽いと言われるのでしょうか。私たちの軛・重荷をイエスさまが共に担ってくださるから「軽い」のです。

この軛をつけられる牛は、一方はベテラン、もう一方は新人の牛だそうです。つまり、ここでイエスさまが「わたしの軛を負いなさい」と言っているのは、イエスさまと一つにされて歩む者とされる、つまりイエスさまの弟子となって生きる者とされるということです。私たちは自分一人で重荷を負っているかのように考えがちですけれど、そうではない。イエスさまが共に私たちの重荷を負ってくださるのです。それだけでなく、私たちのすべてのことに責任を負ってくださっている。そのお方を信頼してそのお方に委ねることができる。だから負うべき重荷を負うことができる、その力が与えられているのです。

古代教会の偉大な指導者アウグスチヌスはこう書いています。「神よ、あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』1巻1)と。イエスさまが与えてくださる休みとは、まさにこういう種類のものです。私たちに神を知らせ、神との正しい関係へ導くことによって、私たち人間に最も必要な根本的な休み、真の休息を与えてくださるのです。

祈りましょう。天の神さま。御子イエスさまが、私たちと軛を一つにされ、共に歩んでくださっていることに感謝いたします。私たちは、人生の重荷を一つ負う度毎に、本当に神さまが生きて働いていてくださっていることを知らされています。この恵みに感謝しつつ、与えられた場において、一つくびきを負って歩むとき、どうか、イエスさまの愛と恵みと真実をより深く学ぶことができますようお導きください。イエス・キリストのみ名によって。アーメン。