聖霊降臨後第6主日 説教
種を蒔く人のたとえ
- 2020年7月12日(日)
- 聖霊降臨後第6主日
- マタイ13章1~9, 18~23
1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。 3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 9耳のある者は聞きなさい。」
18「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。 20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。 23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
《1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9 耳のある者は聞きなさい。」》
きょうの御言葉は、「種を蒔く人のたとえ」です。この当時の種まきは、まず畑を耕してそこに種を蒔くというのではなく、先に種を蒔いてからそこを耕すというやり方でした。ですから、種は良い土地にだけ落ちるのではなくて、さまざまな所に落ちます。イエスさまは良い地の外に、道端・石だらけの所・茨の地、と三つの場所を挙げていますが、これもユダヤにおいて畑の周りに普通に見られるものでした。
当然のことですが、周りの土地に蒔かれた種は実を結ぶに至りません。しかし、良い土地に蒔かれた種は実を結んで、百倍、六十倍、三十倍にもなりました。当時の麦の収穫は、十倍になれば良い方であったと言われていますから、これは、現実にはあり得ない話です。
イエスさまは《耳のある者は聞きなさい》と言って注意を促していますが、群衆はここで、イエスさまがこの種まきの話をとおして何か別のことを告げようとしているのだということに気づいたはずです。
18節以下によると、この種は《御国の言葉》のことです。ですから、種を蒔く人は神またはイエスさまということです。いろいろな土地は私たち人間のことになります。そうすると、神またはイエスさまは良い土地にだけ、つまり素直に受け入れる人にだけ御言葉を与えるのではない、ということになります。実らなくても、どんな人にでも、惜しまず豊かに御言葉を与えていくのです。
さらに、この種を蒔く人は教会、伝道者とも読めます。そうすると、御言葉を聞く人がどういう人であろうと、無駄な所に蒔いたなどと思わないで、とにかく御言葉を蒔いていくほかないということです。私たちにはその土地が良い土地なのか、道端なのか、石地なのか、茨の地なのか分からないからです。どこにでも蒔けば、良い土地にも蒔かれて、その時には驚くほどの豊かな実りを与えられます。その約束を信じて、御言葉を伝えていきなさい。神の国・神の支配は、御言葉が語られ伝えられることによって、その御言葉が大きな実りをつけることによって実現していくのだということになります。
つまり、このたとえは次のようにまとめることができるでしょう。神の国の言葉という種は惜しみなく豊かに蒔かれる。そしてそれは数々の困難に遭い失望することがあるとしても、必ず、大きな実を結ぶに至る。すなわち、神の支配に生きる民を生み出すのだということです。ここで大切なことは、神の力が私たちの救いを実現してくださるとの約束です。きょうのイザヤ書の日課で、《雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす》(イザヤ55章10~11)と聞いたとおりです。
《18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」》
この段落では、神の言葉を受けた人間の側のあり方が見つめられています。種はいろいろな土地に蒔かれました。道端というのは、御言葉を聞いてもすぐに忘れてしまって、心に残らない人。石だらけの地とは、御言葉を聞いて、いいなと思って受け入れるけれど、艱難や迫害が起きると、すぐにつまずいてしまう人。茨の中とは、御言葉を聞くけれども、世の思い煩いや富の誘惑によって、実りに至らない人。そして、良い土地に蒔かれた種だけが、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶといいます。
この四つの土地のうち、道端も、石だらけの所も、茨の間も、みんなそれぞれに自分のことだと思うのではないでしょうか。そして自分は少なくとも「良い土地」ではないと思うのです。でも、元々「良い土地」の人などいるのでしょうか。ペトロでさえも、イエスさまが捕らえられた時に三度知らないと言ってしまいました。使徒たちも、生まれながらに良い土地であったわけではなかったのです。
そもそも、道端と石地と茨の地という実ることがない三つの土地と、多くの実りをつける良い土地の違いは何でしょうか。それは耕されているかどうか、手入れをされているかどうかです。道端でも、石地でも、茨の地でも、深く掘り起こして耕されれば良い土地になります。
この硬い土、石、茨とは、神の言葉を受け入れない、これに従おうとしない、私たちの中にある頑なさのことです。自分の考え方、生き方、経験、楽しみ、誇り、そういったものが神の言葉を受け入れないのです。私たちは道端や石地や茨の地のように御言葉が実りそうにない土地かもしれません。けれども、そのような私たちに神は熱心に、繰り返し、あきらめることなく御言葉の種を蒔き続けていてくださるのです。それは、神が私たちを何とかして、御言葉の種が育ち実を結ぶ良い土地にしようと愛を傾けてくださるということです。
私たちに与えられる御言葉、御国の言葉とは、私たちの頑なな心を砕く言葉です。その御言葉とは、要するに、御子イエスさまの生と死と復活をとおして私たちに示された神の無条件の愛であり、ただ恵みのみ、信仰のみによって救われるという福音の御言葉です。この御言葉によって、神は私たちの頑なな心を砕いてくださるのです。砕かれることはつらいことですが、砕かれること抜きに、私たちが変えられていくことはありません。この砕かれ、変えられていくことが、「悔い改め」ということです。ダビデも有名な悔い改めの詩編で、こう祈っています。《神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません》(詩51:19)。そして、その与えられた御言葉は、やがて驚くべき実りを私たちにもたらすのです。
もし私たちが先ほどのように、「自分はいったいどの土地だろうか、最初の三つは身につまされる、しかし少なくとも最後の良い土地ではない」というふうにこれを聞いてしまうと、私たちはこのたとえを理解できない者となってしまうのです。このたとえで、神は誰がどの土地かということを言っているのではありません。神は私たちの心に種を蒔き、そこを耕し、石を取り除き、雑草を抜いてくださったのです。「もはやあなたがたは良い土地である。やがて考えられないほどの実りを結ぶ者となる。あなたがたは幸いだ。おめでとう」とイエスさまは祝福しておられるのです。それが、このたとえでイエスさまが語ろうとしていることです。
では、この百倍、六十倍、三十倍の実りとは何を意味するのでしょうか。神の国は神の支配ということですから、神の支配が現れることが実りということになります。神の支配、神の国の到来が、そのことによって明らかになるような実りとは何か。その実りとは、神の国の恵み、神の国の祝福にあずかることに他なりません。それはまったき罪の赦しであり、イエスさまに似た者に変えられることであり、永遠の命に生きる者になるということです。それはまさに、百倍、六十倍、三十倍といった、普通では考えられないほどの祝福に満ちたものです。そしてこのことこそが、信仰を与えられた私たちに、必ず与えられると約束されている驚くべき実りそのものなのです。私たちは、その実りを結ぶ者として召し出されているのです。
祈りましょう。天の父なる神さま。私たちが良い土地、御言葉の種に実を豊かに結ぶ者とされる約束が与えられていることを感謝します。あなたの御言葉が心に深くに根付き、あなたの喜ばれる実を豊かに結ぶことができますように、どうか私たちをつねに耕し、柔軟な心にしてください。イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。