聖霊降臨後第4主日 説教
イエスを受け入れる者
- 2020年6月28日(日)
- 聖霊降臨後第4主日
- マタイ10章40~42
40「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。 41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。 42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
マタイ10章で、イエスさまは、弟子たちを福音伝道に遣わすに当たって、その心得を語ってきました。きょうはその最後の部分です。まず40節で、《あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである》。このように言って、イエスさまは、弟子たちを励ましています。
この40節の御言葉は、マタイ福音書だけでなく、他の福音書にも出てきます。マルコに1個所(9章37)、ルカに2個所(9章48、10章16)、ヨハネにも2個所(12章44、13章20)あります。このことは、内外の困難に直面しつつ歩んだ初代教会の歴史において、この御言葉が非常に大切にされたことを表わしています。
この励ましは、弟子たちが人間として持っている力を奮いたたせるものではありません。イエスさまは弟子たちに与えられている「権威」を明らかにして励ますのです。その権威とは、弟子が父なる神とイエスさまによって派遣された者であるという点にあります。弟子たちは、イエスさまによって派遣され者です。だから、弟子たちを受け入れることは、弟子たちを派遣したイエスさまを受け入れることになります。そしてイエスさまを受け入れることは、イエスさまを派遣した父なる神を受け入れることになるのです。
この「受け入れ」の道筋は、神が私たち人間のもとにやってくる順序であり、私たち人間が神との出会いに至る順序でもあります。神は御自分をイエスさまに委ね、イエスさまは御自分を弟子たちに委ねました。こうして弟子たちの証しによって、神との出会いに導かれるようにしてくださったのです。
その弟子たちは現在、この地上にいませんけれど、私たちには弟子たちのキリスト証言の言葉が残されています。それが新約聖書です。私たちは、弟子たちの証しを受け入れることをとおして、イエスさまに出会い、父なる神を受け入れることになるのです。
ヨハネ20章21節に、《父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす》とあるように、弟子たちはこの「受け入れ」の道筋の中に置かれているから権威があるのです。弟子たちの人柄と信仰の素晴らしさや貧しさなどによって権威があったりなかったりするのではありません。イエスさまは、後の42節で弟子たちのことを《この小さい者》と言っていますが、そのような者を「イエスさまが派遣した」、この一点に権威があるのです。
ここに、《受け入れる》という言葉が何度もありました。「受け入れる」ということは、第一に私たち人間の側の受け入れたいという意欲によってできることではなく、神がまず先に自らを差し出したことによって受け取ることができるということです。第二に神はその恵みをイエスさまをとおして弟子たちを派遣することによって行いますから、その弟子たちをまさにイエスさまに派遣された者と認めて迎え入れることになります。
では、「受け入れる」とは、具体的にどういうことなのか。それは、その弟子たちの語る言葉を聞くことにあると言えるでしょう。というのは、人が「モノ」ではなく、人であることのしるしは、言葉を語り、それを聞くという点にあるからです。人をどんなに歓迎しても接待しても、その人の言うことに耳を傾けなければ、礼を失します。弟子たちが語るのを聞くとは、彼らのキリスト証言を聞くことによって神と対話を交わす間柄になるということです。私たちが聖書を読むのは、弟子たちの証しをとおして神の御声を聞くためなのです。
イエスさまはそのように言った後、41節で、受け入れる者に対する「報い」を語ります。《預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる者は、正しい者と同じ報いを受ける》。預言者や正しい者とは、旧約の歴史において神に奉仕をする人たちのことです。昔の人々が預言者や正しい者を受け入れたように、今イエスさまによって新しく立てられた奉仕者である弟子たちを受け入れるようにと勧めているのです。事実、弟子たちは、イエスさまのことを証言する限りにおいて、確かに預言者であり正しい者であると言うことができます。ですから、弟子たちを神に派遣された使者として認めるように求めているわけです。
では、この《報い》とは何かということですが、ここには具体的にそれがどんなものかは語られていません。しかし、40節に、《わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである》とありますから、「報い」とは、イエスさまを受け入れて父なる神との交わりに生きる命であり、永遠の命であると言ってよいでしょう。「受け入れ」の道筋においてもたらされるのは「救い」だからです。しかしまたここでは《預言者と同じ報い》とか《正しい者と同じ報い》と言われています。つまり御言葉を語る者と受ける者が同じ報いにあずかるというのです。したがって「報い」とはただ永遠の命を受けるというだけではなく、神の御心の実現に参加するという恵みのことでもあります。
その上で42節で、イエスさまは受け入れる者への報いの約束を具体的に語ります。《はっきり言っておく、わたしの弟子であるという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水の一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける》。「はっきり言っておく」は、口語訳では「よく言っておくが」と訳されていました。直訳すると「アーメン、私は言う」で、力強い宣言です。
ところで、イエスさまは弟子たちを《この小さな者》と言います。確かに弟子たちは、人間としては小さい者でしょう。当時のユダヤ当局は弟子たちを《無学な普通の人》(使徒4章13)と見なしています。しかしイエスさまは、神の目から見て言っていることですから、人間の世界で他と比べてより小さい者といったことではなく、本質的に小さい者たちなのです。人間は土の塵から造られた存在にすぎない者であることが、思い起こされます。
しかし、そのような者たちが《わたしの弟子》とされ、イエスさまに派遣されて、イエスさまの救いを証しする者とされている。そこに弟子たちの権威があります。ですから、《冷たい水一杯でも飲ませてくれる》とは、弟子をイエスさまが派遣した者と認めることを具体的に言ったわけです。「水」は誰もが生きるのに必要なものです。聖書の舞台となったパレスチナ地方は飲み水が豊かにありません。ですから、水でもって助ける人は「報い」にあずかるのであり、永遠の命を約束されると共に、永遠の命をもたらす神の救いのみ業に奉仕する者とされているということです。
とにかく、この小さな者に優しい心で接し、手を差し伸べる人を、神は決して忘れません。このことは、世の終りの裁きについての説教でも言われています。イエスさまはご自分を王にたとえて、《いつわたしたちは、・・・のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか》と言う人々に、こう答えています。《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(マタイ25章31~40)。
ここに、《報いを受ける》という言葉が出てきます。イエスさまはこの言葉を強調して三回も用いています。私たちは、救いとは「報い」ではなく「恵み」だと繰り返し学んできました。しかし、この報いは、ただ彼らを「受け入れる」だけで「預言者と同じ報い」、「正しい者と同じ報い」を受けるわけで、結局は、ただ恵みによって彼らと同じ祝福を受け継ぐということになります。
まず、イエスさまは40節で、福音を証しして生きる弟子たちと、その弟子たちが信じているイエスさまと、さらにイエスさまを世に遣わされた父なる神という三者が密接な関係で結ばれていると語られました。まことに恐れ多いことですが、イエスさまは、《わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである》(40節)と言われます。弟子たちが、つまり私たちが、まるでイエスさまご自身から、また父なる神から、世の人々の所へ特別な任務を帯びて遣わされた大切な親善大使であるかのように言われるのです。イエスさまの弟子として私たちがこの世に存在することは、それほどに貴重な存在だということなのです。神の祝福が人々の間に広がるために、神は私たちを、職場、学校、地域社会、家庭に置かれ、私たちを祝福の基として用いようとしておられるのです。
祈りましょう。天の神さま。あなたからいただいた私たちの尊い役割と光栄を改めて覚え、感謝いたします。欠けの多い小さな器でしかない私たちですが、どうか、この私たちを御言葉と御霊によって清め、あなたのご栄光、そして人々の救いと本当の幸せのためにお用いください。イエス・キリストのみ名によって。アーメン。