聖霊降臨後第3主日 説教
平和ではなく剣
- 2020年6月21日(日)
- 聖霊降臨後第3主日
- マタイ10章24~39
34「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 35わたしは敵対させるために来たからである。
人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
36こうして、自分の家族の者が敵となる。
37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
イエスさまは34節で、《わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ》、と告げます。私たちはこの御言葉に戸惑ってしまいます。イエスさまは平和を実現するためにこそ来たのではないかと思うからです。イエスさまご自身、山上の説教では《平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる》(マタイ5章9)と言っていましたし、伝道の心得を語る説教では、《その家に入ったなら、『平和があるように』と挨拶しなさい》(マタイ10章12)と命じておられるからです。これは一体、どういうことでしょうか。
イエスさまは、《思ってはならない》と言いますが、そう思っていたのは弟子たちでした。つまり、弟子たちが、「先生、あなたは地上に平和をもたらすために来られた方だと思います」と思っていたということです。
ここで「思う」と訳されている原語は、「現在行われている法や慣習に従って考える」というの意味合いの言葉です。ということは、弟子たちは、イエスさまの言葉と行いに基づいて考えていたのではなくて、同時代に広く行われている慣習的な考え方に基づいて思っていたわけです。つまり、イエスさまがダビデ王のようなお方として、ローマ帝国の圧政を打倒し神のご支配を実現して平和をもたらすことを期待していたのです。弟子たちは、イエスさまに政治的なメシアを期待したということです。
そこで、イエスさまは弟子たちに言います。《そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように》(マタイ20章25~28節)。つまり、イエスさまは、「誰かの犠牲の上に成り立つ、自分たちだけに都合のよい世界は、平和な世界ではない。平和な世界とは、すべての人々が人間らしく幸せに暮らせる世界だ」と言うのです。
そういう平和を実現するために、イエスさまは《剣をもたらすために来たのだ》と言います。神のみ心を無視して自分勝手に生きる人々の生きざまに切り込みます。それが問題の根本原因だからです。イエスさまがもたらす平和は、この世においては、イエスさまの救いを阻止する勢力との戦い、罪に対する勝利として実現していくのです。私たちはこのイエスさまの戦いに巻き込まれ、参加していくように求められているのです。
そこでイエスさまは、預言者ミカの言葉(ミカ書7章6節)を引用しつつ、次のように述べています。《わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘をその母に、嫁をしゅうとめに。こうして自分の家族の者が敵となる》。この「剣をもたらすため」、「対立させるため」の「ため」という言葉は、目的ではなくて結果を表わします。剣をもたらして敵対させることが目的ではなく、本来は神との間に嬉しい平和を確立してくださるイエスさまを、人が心から信じ受け入れた結果として、周囲との摩擦や衝突、対立が起きるということです。罪に対する戦いは、確かに家族のような身近な所でも起こるとイエスさまは言われます。そして、それは救いの完成に向かう神の歴史の中でのことであるから動揺するなというわけです。
これは、誰よりもイエスさまご自身に起こったことです。マルコ3章21には、《身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっていると」言われていたからである》、とあります。イエスさまの伝道と癒しについて、当時の律法学者たちは、イエスさまがベルゼブルと呼ばれる悪霊の力によって癒しを行なっていると非難していました。そこで家族の者たちは、律法学者たちの言うことに影響されて、イエスさまを保護しようとしたのです。このようにイエスさまご自身おいて家族や故郷の人々の無理解が起こり、対立が起こるのであれば、イエスさまに従う者たちにもそのようなことが生じてきます。ですから、イエスさまはマタイ20章25~28節で、次のように言います。《わたしより父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない》。
《ふさわしくない》の元の言葉は、天秤量りで測って釣り合わないという意味です。イエスさまの愛に釣り合うあり方をするために、まず自分がイエスさまに大切にされていることを受け止め、その重さを知ることが重要です。
私たちは誰でも夫、妻、子供のことが気にかかります。しかし、私たちは神ではありませんから、家族の一人一人の人生に対して根本的な責任を負うことはできません。子供、親、配偶者を神に委ねるということこそが基本的に大事なことではないでしょうか。その意味でも、大切な家族もまた、イエスさまの愛と恵みによって与えられ守られていることを忘れてはなりません。
では次に、イエスさまを愛するとはどのようなことなのか。イエスさまは何と、それは、私たちが「自分の十字架を担ってイエスさまに従う」ことだと言います。それがイエスさまに従うことに釣り合うことだと言うのです。「十字架」とは、当時ローマ帝国が反乱を起こした者たちに対して見せしめのために行なった刑罰の道具ですが、ここでは自分固有の罪と向き合うことと考えたらよいでしょう。
イエスさまに罪を赦していただくことによってこそ、私たちは自分を直視して、「自分の十字架」を担うことができるのです。逆に言えば、イエスさまによる罪の赦しのないところでは、自分を直視して罪を自分の責任として引き受けることはできないのです。十字架の言葉は、復活の勝利の言葉と共に読まないと、正しく受け止めることはできません。
こうして最後に、39節で、イエスさまは、私たちの十字架と復活を予告するような御言葉を語ります。《自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである》。「これは厳しい。私はクリスチャンになれない」と思う人があるかも知れません。イエスさまの最も近くにいた、あの弟子たちでさえも、自分の命を得ようと、イエスさまを見捨てていたのです。どの弟子もイエスさまと共に十字架を背負うこともなく、従うこともなく、逃げたのです。しかし、彼らは、後にイエスさまのために命を失う者になりました。十字架を負って生きる者になりました。弟子たちが変わったのは、死に勝利して復活されたイエスさまに出会ったからです。彼らは、死の力を打ち破るまことの命を与えてくださる父なる神の恵みの力強さを目の当たりにしたのです。死に勝利するまことの命という恵みは、イエスさまのもとにあったのです。しかし、このまことの命は、私たちが自分の命を求めている間は見えてこないのです。
この39節の御言葉で、私は星野富弘さんのある詩を思い出します。
「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。/いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」
星野富弘さんは中学校の体育の先生でしたが、クラブ活動の指導中に頸髄を損傷して、手足の自由をまったく失ってしまいました。しかし、絵筆を口にくわえて多くの作品を発表し、その作品は多くの人々に感動と生きる喜びを与えています。自分のいのちに固執し、これを守ろうとすると苦しい。でも、いのちより大切なものの存在は生きているのをうれしくさせる。何か分かる気がしませんか。私たちにとって命が一番大切であることは言うまでもないことです。ところが、やっかいなことに、どうすることが命を大切にすることになるのかがよく分かりません。命を尽くしていけるものに出会うことによって、人は活きいきと生きていける者となります。大切にするとは、この命を使い、尽くしていくことではないでしょうか。命を使うと書いて使命。この「使命」という言葉は、そういうことを言っているのでしょう。
祈りましょう。救いの神さま。私たちをイエスさまの歩みに連ならせてくださったみ恵みを感謝します。どうか、あなたのみ霊が強く臨み、弱い私たち一人一人の信仰を強め、励ましてくださいますように。アーメン。
(きょうの福音書は、イエスさまの語録が四つ続く箇所ですが、説教では最後の34~39節を取り上げました。)