復活節第5主日 説教
イエスは父に至る道
- 2020年5月10日(日)
- 復活節第5主日
- ヨハネ14章1~14
1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
きょうの御言葉は、イエスさまは一体どのようなお方なのかということが、イエスさま御自身の言葉によって示されています。一部を抜き出してみましょう。7節、《あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている》。9節、《わたしを見た者は、父を見たのだ》。10節、《わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。・・・わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである》。11節、《わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい》。
イエスさまはこのように同じ事柄を言葉を少しづつ変えて語っています。つまり、「イエスさまを知ること」は「父を知ること」、「イエスさまを見ること」は「父を見ること」、そして「イエスさまは父の内」おり「父はイエスさまの内」におられると、イエスさまと父なる神との一致ということを語っているのです。
イエスさまと父なる神が同じということではありません。父なる神は見ることはできませんが、イエスさまは見て、触れることができるお方です。私たちはどうすれば父なる神を知ることができるのか。イエスさまは明確に、「わたしを見よ」と告げます。イエスさまを見る者は父なる神を見るのであり、イエスさまを知ることは父なる神を知ることなのです。なぜなら、イエスさまは父の中に、父はイエスさまの中におられるからだ、とイエスさまは言うのです。イエスさまは、天地を造られた、目で見ることのできない唯一人の神を私たちに示し、私たちに知らせるために来られたお方なのです。ヨハネ1章18節に、《いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである》、とある通りです。
このイエスさまがまことの神であるということは、私たちを一切の偶像礼拝から解放します。偶像礼拝というのは、ただ刻んだ像を拝むというだけのことではありません。その本質は、私たちが自分に都合の良い神を造り出すということです。どうして偶像を造ってしまうのか。それは、私たちの中に、目に見えない神に対して「頼りない」と思い、目に見えるものが欲しいと求める思いがあるからです。人間は、神を見失い、迷ってしまったのです。しかし、イエスさまがまことの神としてその御姿を私たちに示すことによって、私たちはこの方以外のどのような目に見えるものも神としない、神とすることができない者にされたのです。そのことを、イエスさまの有名な御言葉は言っているのです。6節、《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》。
イエスさまは道そのものです。その道は、真理の道であり、命の道なのです。ということは、誰でもイエスさまによらなければ、父なる神を見ることはできず、父なる神を知ることもできず、したがって父なる神の御許に行くこともできないということです。イエスさまが道であるということは、これ以外の道は存在しないという意味です。イエスさまは父なる神と人間との間に与えられた唯一の道なのです。この道は、イエスさまの十字架という犠牲によって造られたものです。誰もこのイエスさまの十字架という犠牲を抜きにして神の御許に行くことはできません。
次に、このイエスさまの、御自分が誰かを示す御言葉が、トマスやフィリポによる問いに答える形で与えられていることにも注目しましょう。
最後の晩餐の席でイエスさまが、「自分は十字架にかかり、復活し、天に昇り、父の御許に行く」と予告すると、ペトロは、《主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます》(13章37)とまで決意を語ります。しかしイエスさまは、今は一緒に付いて来ることはできないと断言します。ペトロも他の弟子たちも、「イエスさまに付いて行けない、道が見えなくなってしまう」と、心が騒ぎます。そこでイエスさまは、《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい》、《あなたがたのために場所を用意しに行く》のだと諭します。すると、その言葉に対して、トマスは、《主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか》と問いかけます。フィリポも口を出して、《主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます》と言います。イエスさまは、このトマスやフィリポの問いに丁寧に答えて、御自身が誰であり、十字架によって何が起きるのかを示されたのです。
ここで私たちは、この「分からない」ということに対して正直でいいのだ、ということを教えられます。イエスさまと共に生活していた弟子たちでさえも、イエスさまが語られることが分からない。私たちにしても聖書に書いてあることは分からないことばかりです。その分からないことは分からないこととして、神に問うていったら良いのです。そうしたら神は時が来れば必ず応えてくださいます。そのことを信じて、問い続けることが大切なのであって、分かったふりをする必要はありません。
私たちは「分かる」ことと「信仰」を同じことのように考えていることがないでしょうか。しかし、本当のところは、信仰というものはどうしても行き着く先は「よく分からない」ということが残るものだと思います。三位一体にしても、復活にしても、終末にしても、よく分からないところは残ります。しかし、私たちはそれを信じます。信じることができる根拠が与えられているからです。それがイエスさまとの交わりです。
私たちはイエスさまを神の子と信じ、このイエスさまの十字架の恵みの中を生かされています。私たちもまた、すでに神の子とされています。永遠の命に生きる希望を与えられています。しかし、このすでに与えられている救いの恵みが、どんなに大きなものであるか、どんなに素晴らしいものであるかを、いまだ十分に分かってはいないのではないでしょうか。しかし、よく分かっていないからと言って、その恵みを与えられていないわけではありません。よく分かっていなくても、事実すでにその恵みに与っているのです。救いに与るとは、実感することではなくて、信じることなのです。すでに与えられている救いの現実を信じるわけです。それは、空気を吸っている実感はなくても、空気を吸って生きているのと同じです。
イエスさまは「わたしは道である」と言われました。この道を行くということは、イエスさまを信じ、イエスさまと共に生きるということです。イエスさまとの交わりの中に生きることです。つまり、そういう生き方でのみ、私たちは父なる神の御許に行けるということです。このイエスさまが、永遠の命に至る道であるからです。
私たちは明日のことを知らない、どういう道が開かれているのか分からない、と特に困難な時は不安に思います。しかし、イエスさまが道であるということは、イエスさまとの交わりの中に生きているならば、たとえ何が起きたとしても、辛くても苦しくても、この私たちが歩む道は神の国へと続いていると言うことができるのです。だから、私たちはイエスさまと共に、そして教会の仲間たちと共に、一緒にこの道を歩いているのです。