Sola Gratia

復活節第4主日 説教

イエスは良い羊飼い

1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門から入る者が羊飼いである。 3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

イスラエルの人たちは、羊飼いのこと、羊のことをよく知っていた人たちです。しばしば自分たちのリーダーを羊飼いにたとえることがありました。自分たちはその羊飼いに養われている羊ということです。

1~5節は、イエスさまが話したたとえ話です。こういうあらすじです。「囲いの中に羊がいます。この囲いには門があり、この門を通って羊飼いは羊を連れ出します。しかし、盗人や強盗は門から入らずに囲いの中に入ります。羊は羊飼いの声を知っているので羊飼いに付いて行きますが、羊飼い以外の者には付いて行かず、逃げてしまいます」。

ここで、羊とは明らかに私たちのことです。この地方では、羊飼いたちは昼間は羊たちを外に連れ出して、草を食べさせたり水を飲ませたりして養いますけれども、夕方になると囲いの中に入れるという羊の飼い方をしていました。この羊の囲いは、人が住む家に隣接した、かなりしっかりした柵を考えたら良いと思います。囲いには門がありそこで羊飼いが羊の番をしています。羊が逃げないようにするためというよりも、狼などの外敵から羊を守るためでした。羊はここに入っていれば安全です。ですから、これは神の救いに与ることを意味しているのです。この門と羊飼いが、イエスさまを指しているわけです。そして、盗人と強盗は、神の救いから羊を引き抜いて自分のものにしてしまう人のことであり、ここではファリサイ派の人々を指しています。そのことは、このたとえ話の後に、《イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった》と記されていることから分かります。

ファリサイ派の人たちは、羊飼いや羊のことはよく知っていました。何もイエスさまのこんな話など聞かなくても、そんなことは分かっています。しかしそれでもよく分からなかったのです。なぜなら、この話を自分たちのこととして聞くことができなかったからです。

このイエスさまの話は、直前の9章34節にあるように、イエスさまによって目が見えるようになった人が、イエスさまを信じたことによってユダヤ人たちの交わりから追い出されたという出来事に対して語られています。新共同訳聖書では9章と10章は小見出しで区切られていますが、口語訳では一続きになっていました。もともと章を跨いて話は続いているのです。

ファリサイ派の人々は、律法を守ることによって救いを得ると考えていましたから、安息日に目を見えるように癒す御業を行ったイエスさまを律法違反者と見なし、そのような者を「預言者」、「神のもとから来た者」と信じるこの人を追い出しました。それに対してイエスさまは、このようなことこそ、本来救いに与る者を神の救いから閉め出してしまうことであり、人を神の救いから盗み出して自分のものとしてしまう盗人の行為だと言うのです。

イエスさまは、《わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる》と明言しました。イエスさまを通る者は救われます。ここで私たちは、《狭い門から入りなさい》(マタイ7章13)という御言葉を思い起こすでしょう。実にイエスさまが「狭い門から入れ」と言われた門こそ、イエスさま御自身であったということです。イエスさまこそ私たちが神の救いに入る門なのです。この門以外に、神の救いに至る道はありません。救いに近づく道が幾つもあったとしても、本当に救いに与るためには「ただ一つの門であるイエスさま」を通らなければなりません。私たちの熱心も、私たちの善良さも、私たちの良き業も、私たちが救いに与るには何の役にも立ちません。神の救いに与るには、ただイエスさまを信じ、イエスさまにより頼む以外に道はないのです。ですから、イエスさま以外のものに頼ることを勧める者は、神の羊を盗もうとする盗人であり強盗だということです。このことが、次のイエスさまが羊飼いであるということへと繋がっていきます。イエスさまに依り頼み(信頼し)、イエスさまに従っていくしか救われる道はないのですから、神の羊は、イエスさま以外の者の言葉には従いません。イエスさまだけが私たちをまことの救いへと導いてくださる羊飼いだからです。

イエスさまは門であり、羊飼いでもあるというのは、その内容によって結びついています。門であるイエスさまを信じることによってしか救われない。だから、羊飼いであるイエスさまの導きにしか従わないということです。

このたとえは、イエスさまを信じ、イエスさまに従うということは、羊が羊飼いの声を知っており、その声だけに従うということなのだと語っています。このことがとても大切です。この地方における羊は、いつも危険と隣り合わせでした。羊は目が良くないので、目の前のものしか見えません。目の前の草を食べることに夢中でいると崖から落ちたり、あるいは一匹だけ群れから離れて迷ったら、狼や獣に襲われてしまいます。羊飼いは、あらゆる危険から羊を守るために、羊一匹一匹に名前を付け、いつもどこにいるのか見張り、危険な所に行きそうになれば声をかけて連れ戻します。羊飼いは、自分の羊に対して声によって指示を与えるのですが、羊は自分の羊飼いの声を知っていて、その声だけに従います。それだけが自分の命を守るただ一つの手段であることを知っているからです。

この羊飼いの姿は、旧約聖書においても、神の民を守る神の姿と重ねて語られてきました。イザヤ書やエレミヤ書やエゼキエル書などにもありますが、一番有名なのは、先ほど交読した詩編23編でしょう。この詩編には、羊飼いとしての神と、羊としての私たちの関係がよく示されています。

詩編23編は、神と私たちの関係、神の守りの中に導かれる私たちの幸いを歌い上げています。そして、この詩編は、きょうの箇所ヨハネ10章1~10節に続く11節にあるイエスさまの御言葉、《わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる》によって、さらに明確なイメージが与えられます。羊飼いは、私たちを《青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴》ってくださいます。《死の陰の谷を行くときも》共にいて、私たちを守り、力づけてくださいます。羊飼いは、私たちを守るために、私たちに平安を与えるために、御自身の命を捨てて、まさに命がけで私たちを守り、導いてくださるのです。私たちは、神の守り・支え・導きというものを、全能の神のことだから、苦もなく易々と行っていると思ってしまうかもしれません。確かに、神は全能です。しかし、その全能の神が私たちを救いにもたらすために執った手段は、御子を十字架につけるという、まことに痛ましい出来事によったのです。

イエスさまの十字架がなぜ起きたのか。なぜイエスさまは命を捨てなければならなかったのか。人間が邪魔者であったイエスさまを十字架につけた、それも十字架の一つの側面かもしれません。しかしイエスさまご自身はそうは言いません。「わたしは自ら命を捨てる」と言います。自分の意志で、羊を愛するゆえに、命を献げると言います。羊たちの罪を背負い、十字架で命を捨ててくださる。それによって私たちは罪赦されたのです。そのような御業によって、羊である私たちは命を得ることができるのです。

ここに愛があります。イエスさまが良き羊飼いであるというのは、羊のために命を捨てるという、まさに命がけの愛をもって御自身の羊を守り、導いてくださったからです。このことを知った私たちは、どうしてこの良き羊飼いであるイエスさま以外の声に従うことができるでしょうか。

この門から入る方法は、キリストの御声を聴き分けるかどうか、キリストについていくかどうかです。そうすれば、牧草を見つけることができます。《わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける》。そして、この門と羊飼いが、イエスさまを指しているわけです。私たちを生かす命の糧を見つけることができるのです。狭い門であるかもしれません。しかしその御声で私たちの名前を呼んでくださり、その門を通って牧草地へと導いてくださる。そういう救い主です。狼が襲って来ようとも、盗人や強盗が入って来ようとも、私たちはキリストの御声を聴き分け、この声に養われ、命を得て歩んでいくのです。