Sola Gratia

聖霊降臨後第21主日 説教

富の危険と信従の報い

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

イエスさまがまさに旅に出ようとされた時、ある一人の人が走り寄ってきて、み前にひざまずきました。そして、《「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」》と尋ねたのです。

もともとイエスさまは、当時の正式な意味でのラビではありません。特別な神学教育を受けられたわけでもないその方を「善い先生」と呼び、ひざまずいて尋ねたのは、彼がイエスさまの中に働く神の霊の権威に心から打たれていたからにほかならないでしょう。彼は、自分の人生の究極的な問いの答えを、この方に求めたのです。

「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。この問いは、イスラエルに生きる人にとって、まさに人生の究極的な問題でした。神の約束に生きる民にとって、神が約束してくださるものを「受け継ぐ」ことこそが最大の関心事です。その約束の内容は、み国や命、あるいは栄光といったさまざまな言葉で語られ、「受け継ぐ」ことや「入る」こととして表現されてきました。したがって、「命を受け継ぐ」ことは、「神の国に入る」ことと同じ終末的な祝福を意味しています。

ここで「永遠の命」という表現が使われているのは、この物語が語り継がれていく過程で、より普遍的な響きを持つようになったからかもしれません。それはもはやユダヤ教という特定の枠内にとどまらず、死に定められているすべての人間にとって切実な問題であることを示しています。

ユダヤ教は極めて実践的な宗教です。この目的に到達するためには一体何をなすべきか、その具体的な行為を問うのが特徴です。この青年の問いも、そうした典型的なユダヤ人の問いであり、同時に、死を超える永遠を慕わずにはいられない人間の普遍的な問いでもありました。この切実な問いに、イエスさまは正面から向き合われます。

まずイエスさまは、《「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」》と応えられました。イエスさまはご自分を「善い者」とされることを拒まれます。神だけを善しとして、ご自分を含めていかなる人間にも善を帰すことを厳しく退けられるのです。神だけを善とし、自分を無とする。すなわち、神をすべての価値の源泉とし、自分の中には誇るべき善など何もないという立場に徹すること、これこそがイエスさまという方の人格の秘密でした。

その上でイエスさまは、「何をすればよいか」という問いに対して、神の戒めである律法を思い起こさせます。《「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」》と答えられるのです。これらはモーセの十戒を中心とした、イスラエル人にとって最も基本的な倫理の戒めでした。

これを聞いて、彼は《「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」》と答えます。彼はここで、そもそもそのような問い方をする自分の立場そのものが間違っていることに気づくべきでした。

イエスさまの答えは、「自分が何かをなすことによって、永遠の命を受け継ごうとする」という彼の生き方そのものの根底を揺さぶっています。彼は、自分の善い行いや努力の積み重ねによって、永遠の命という報酬を手に入れようとしていたのです。しかし、人間が自分の業績によって永遠の命を受け継ぐことなど、本来は不可能です。彼がその立場にとどまる限り、どれほど熱心に戒めを守り続けようとも、永遠の命に至ることはできません。戒めをすべて守ってきたはずの彼自身が、その心の奥底では「自分の中に永遠の確証がない」ことを一番よく知っていたはずなのです。

ひたむきな態度で永遠の命を追い求め、み前にひざまずいているその青年を見つめ、イエスさまはいつくしみを込めてこう言われました。

《「あなたには、まだ一つ欠けているものがある。行って持っている物を売り、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになる。それから、わたしに従ってきなさい」》。

この「足りない一つ」とは、先ほどの戒めに付け加えるべき道徳的な善行のリストのようなものではありません。この「一つ」は、彼が今しっかりと立っているその基盤を、根底からひっくり返すためのものでした。

イエスさまは、青年に「財産を貧しい人に分け与える慈善をしなさい」と、単なる善行の不足を指摘しておられるのではありません。そうではなく、神の前に自分の持っているものや実績を盾にして立とうとするその姿勢そのものを、完全に放棄するように求めておられるのです。

地上には自分の価値あるものを何ひとつ持たず、ただ天にのみ宝を持つ者、すなわち完全に「貧しい者」となって、イエスさまの仲間になり、後ろをついていくように招いておられます。「永遠の命を受け継ぐ」とか「神の国に入る」ということは、自分が成し遂げたことや所有しているものによって得られるものではありません。それは、主イエスに従い、自分を無とするその生き方に合わせられることによってのみ与えられるものなのです。

しかし、その言葉を聞いて、彼は顔を曇らせ、悲しんで去って行きました。彼にはあまりにも多くの財産があったからです。彼はイエスさまを命の道を体現する素晴らしい師と仰ぎながらも、自分の富を捨てるべきかどうかの狭間で悩み、結局はイエスさまに従いきれない自分の弱さを抱えたまま、去るしかなかったのです。

この青年の姿をきっかけにして、「神の国に入る」ことについて、イエスさまと弟子たちの間で深い対話が展開されていきます。

《イエスは弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことだろう」》。

青年は「永遠の命を受け継ぐ」ことを問題としましたが、イエスさまはそれを「神の国に入る」という言葉で表現し直されました。主イエスがともにおられる場所では、「神の国に入る」ことも「命に入る」ことも、遠い未来の約束であるだけでなく、今まさに目の前につきつけられている現実の問題です。自分を無にして「子供のように受け入れる」のか、それとも自分の誇りや所有にしがみついて拒むのかという、避けて通れない現実の問いなのです。

たしかに、自分を捨て、自分を無とすることは本来の魂の姿であるため、地上の財産を実際に持っているかどうかとは直接関係がないようにも思えます。しかし現実には、財産をもっている人間が、その魂の深みにおいて自分を捨てて無になることは、極めて難しいことです。人間の本性は、自分が所有しているものを拠り所にして生きる姿勢が染みついており、そこから完全に脱却することは自力ではほとんど不可能です。

弟子たちは、このイエスさまの言葉に心から驚きました。当時のイスラエル社会において、豊かな富は「神からの祝福のしるし」と考えられていたからです。主イエスの言葉は、彼らの宗教的な常識を根底から覆すものでした。

イエスさまはさらに言葉を続けられます。《「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことだろう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」》。

金持ちだけに限らず、そもそも人間が自分の力で神の国に入ることは、それほどまでに難しいのだとイエスさまは言われます。別の箇所でも、《「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」》(マタイ17章13~14節)という言葉が伝えられています。

しかし、ここで誤解してはなりません。イエスさまが「難しい」とか「門が狭い」と言われる時、それは世間一般の難しさ――たとえば難関の試験に合格するような努力の難しさとは全く違います。世間の難しさは、優れた能力を持つ者が懸命に努力して成果を上げることで達成できるものです。

しかし、神の国に入ることは、そういう意味での努力で勝ち取るものではありません。イエスさまは何の力も持たない子どもを指して、《「神の国はこのような者たちのものである」》(マルコ10章14節)と言っておられます。誰でも神の国に入ることができるのであり、特別な資格や能力は何一つ要らないのです。

神の国に入るのが難しいのは、「子供のように素直に受け入れる」ことの難しさ、すなわち、自分の誇れる資格も価値も能力もすべて手放し、無の場に身を置くことの難しさにあります。人間は本性的に自分の価値を主張し、自分の力や努力に拠り所を求めたがるものです。だからこそ、自分を無の立場に置くことは人間の本性に最も逆らうことであり、これほど難しいことはありません。そして、自分の持ち物が多い人ほど、その執着を断ち切ることは難しくなります。

ここで言う「持ち物」とは、単にお金や財産だけではありません。社会的地位、名誉、知識、あるいは自分の正しさや誇りもすべて人間の所有です。そうしたものは人間の自我を目覚めさせ、強固に固めてしまいます。そのような多くの荷物を抱えたまま神の国に入ろうとすることは、「らくだが針の穴を通る」ようなものであり、人間の力ではもはや不可能に近いと言われるのです。

それを聞いて、弟子たちはますます驚き慌てて、「それでは、いったい誰が救われることができようか」と互いにささやき合いました。人間の常識からすれば、持ち物が多く、社会的に立派で能力のある人ですら神の国に入るのがそれほど難しいというのであれば、一般の平凡な人間はとうてい救われないということになってしまうからです。

その混乱する弟子たちを見つめながら、イエスさまは静かに言われました。

《「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである」》。

たしかに、人間が自分の力で自らを無にすることはできません。それは人間の本性に真っ向から反することだからです。しかし、それができるのは神だけなのです。

ここで、財産を捨て切れずに悲しんで去っていったあの青年の問題に対する、本当の解決が示されています。その解決の方向は、冒頭の「神おひとりのほかに善い者はいない」という言葉の中にすでに隠されていましたが、ここで明確な言葉として提示されました。

「永遠の命を受け継ぐ」ためにも「神の国に入る」ためにも、自分が持っているものをすべて捨て切り、自分を無としなければならないのに、人間にはそれができません。あの青年はまさに「人にはできない」という絶望の壁のところで引き返し、去って行ってしまいました。しかし、もしそこで「しかし、神にはできる」という神の側へと身を翻して飛び込むことができたなら、彼は神の国を見ることができたはずなのです。

では、神はどのようにして、人間には絶対にできないこの奇跡を成し遂げられるのでしょうか。

それは、人間の反抗を力ずくでねじ伏せて達成するというやり方ではありません。そうではなく、人間のどうしようもない弱さと罪を、神ご自身がすべて引き受けるという、人間が思い描くこともできないような驚くべき仕方で成し遂げられました。

それこそが、イエス・キリストの十字架の出来事です。

キリストが十字架の上で血を流して死なれた時、それは私たちのすべての罪のためでした。それは、自己の価値を誇り、神の恩恵の前に平伏そうとしない人間の根深い自我性を、ご自身に引き受けての死でした。神は、キリストの十字架において、私たちの頑なな自我の心を打ち砕かれたのです。

今、キリストを信じてその十字架の歩みに合わせられる者は、自分を執り成す圧倒的な恵みとして、その自我の砕けを賜るのです。

そのペテロが、ふと言い出しました。《「ごらんください。わたしたちは何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」》。

多くの財産にしがみついて自分を捨てることができず、イエスさまのもとから去っていった青年とは対照的に、ペテロをはじめとする弟子たちは、召されたその時にただちに家業や家族を捨てて従ってきたという自負がありました。「財産のある者が神の国に入るのは不可能に近い」と言われた言葉に対して、ペテロがこう言ったのは、「私たちはすべてを捨てて従ってきたのだから、神の国を受け継ぐことは間違いありませんね」という期待と問いかけの気持ちを含んでいたのでしょう。

それに対して、主イエスは優しく、しかし力強く言われました。

《「はっきり言っておく。わたしのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てる者はだれでも、今この世では迫害と共に、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑を百倍も受け、来るべき世では永遠の生命を受ける」》。

キリストのため、そして福音のためにすべてを捨てる者が受ける報いは、当時の人々の世界観であった「この世」と「来るべき世」という二つの枠組みの中で語られています。しかし、実質的にはそれは一つの豊かな命の現実です。

それは、自分を捨ててキリストに結ばれ、共に生きる者に与えられる神の命であり、キリストが生きておられるのと同質の生命にほかなりません。その命によって生きる時、この世では主が苦しみを受けられたように、時には厳しい迫害も免れません。しかし同時に、同じ命に生きる者たちの交わりの深さや、生きることの本当の喜びを、驚くほど豊かに味わうことが許されます。

主イエスに従う者たちの真の交わりにおいては、互いが父や母となり、兄弟姉妹となるような温かい家族の絆が結ばれます。「百倍も受け」という表現は、その人間的な計算を超えた神の恵みの豊かさを示しているのです。そして、この命はこの世の終わりとともに消え去るものではなく、「来るべき世」において神の前に永遠に生き続ける終末的な命、すなわち復活に至る命そのものです。

この命に満たされて生きる時節にこそ、私たちの人生は、たとえどんな苦難の中にあっても、本当の意味での豊かさを宿すものとなります。この命の現実の中に深く入り込むことこそが、「神の国に入る」ということにほかならないのです。

この神の国に入ることについての対話の最後に、イエスさまは次のような言葉を置かれました。

《「だが、多くの最初の者が最後になり、最後の者が最初になるであろう」》。

これは本来、人の運命の劇的な転換を語る当時の格言であったようですが、イエスさまはそれを神の国の一面を伝えるために用いられました。神の国に入るのは、人間の目から見て「最も先に入りそうだ」と評価されている者たちではなく、むしろ「最後になるだろう」と見なされている者たちであるという、価値観の完全な逆転をこの言葉は語っています。

この逆転の歴史こそ、旧約聖書以来の神の救いの伝統でした。強大な力を持つ民ではなく弱小の民が選ばれ、優秀な兄ではなく弟が祝福されていく。そして新約の福音においては、誇り高い聖職者たちではなく、社会の底辺にいた取税人や遊女が、あるいはイスラエルという特権的な枠組みを超えて異邦人が、先に神の国へと招かれていくのです。

人間の目に見える評価や資格は、神の国の前ではまったく意味を持ちません。私たちが自分の誇りをすべて捨て去り、ただ神の憐れみと十字架の恵みに頼って生きる時、そこに全く新しい神の国の秩序が開かれるのです。その驚くべき恵みの歩みを、今日も心から感謝しつつ進んでいきましょう。