Sola Gratia

主の変容(顕現節最終主日) 説教

イエスの姿が変わる

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

《六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた》。

きょうの福音は、「六日の後」という日付で始まります。六日前、フィリポ・カイサリア地方で一番弟子のペトロがイエスさまに答えて《あなたは、メシアです》と信仰を言い表わしたのです。そして、イエスさまは初めて弟子たちにご自身の死と復活を予告しました。《それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた》(8章31)。イエスさまは「十字架」という言葉は使っていませんが、ご自身の十字架の死を予告したのです。このとき、ペトロは苦しむメシアの姿を受け入れることができず、イエスさまをわきへ連れていさめました。彼は、ローマ帝国の支配から自分たちを解放し栄光をもたらしてくれる力強いメシア、救い主を求めていたのです。しかし、十字架の苦しみと死への歩みは、私たちの救いのためでした。そして、イエスさまは復活して新しい命を得て、私たちをもその新しい命へと招いてくださるのです。《わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい》(8章34)。イエスさまに従いたいなら、自分の思い描く救いではなく、十字架のイエスさまによって示される救いのみを追い求め、イエスさまにならって、それぞれの苦しみを担うようにと教えたのです。さらに、《神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる》(8章38)と警告しています。神の御心に従って歩むイエスさまの姿や、そのようなイエスさまに従って歩むことがみじめに感じられ恥ずかしく思ったり、止めたくなったりしても、やがてイエスさまが「父の栄光に輝いて」来るのだから、「わたしとわたしの言葉」を恥じることなく信じて歩みなさいと励ましているのです。

イエスさまに聞き従って歩む者は、この世で何の希望も見いだせないまま苦しみだけを担うのではありません。イエスさまは続けて、こう語っています。《はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる》(9章1)。神の国とは、神の支配を意味しています。それは、世の終わりに完成するものですが、ここで言われていることは、世の終わりにおける完成ではなく、この世における神の支配の「現れ」です。イエスさまは、人間的には恥としか思えないような苦しみを予告すると共に、力強い神の支配も現されると言います。そして、その言葉の通り、神の国が力にあふれて現されたのが、きょうの出来事です。

イエスさまは弟子のうち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登ります。この山は、伝統的には、ナザレのやや東南10キロほどの所にあるタボル山(標高588m)だとされています。

《イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた》。

聖書において山の上というのは、しばしば神がご自身を現される場所です。モーセに神が現れ、十戒を授けたのも山の上でした。この山の上で、弟子たちの目の前で、イエスさまの姿が「栄光に輝く姿」に変えられました。そして、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合って」いました。栄光に輝くイエスさまの姿が弟子たちにはっきりと示されたのです。

伝統的には、この場面でのエリヤは「預言者」を表わし、モーセは「律法」を表わすと解釈されていました。イエスさまの「神の子変容」が、律法と預言者(二つで旧約聖書全体を指す)によって証しされていると解釈されたからです。しかし現在では、ここでの二人の顕現は、終末の到来と、これに伴うメシアの顕現を表わすと受け取られています。モーセはネボ山で姿が見えなくなって、その墓は隠されていますし(申命記34章1、6)、エリヤは生きたまま天にあげられています(列王記下2章11)。それで、イエスさまの時代には、二人とも終末に再臨してメシアの到来を告げると信じられていました。モーセ再来の預言については申命記18章15、18。エリヤについては、《見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる》(マラキ3章23)とあるところから来ています。

モーセとエリヤがイエスさまと何を「語り合っていた」のかは書かれていませんが、ルカ9章31によると、この二人がイエスさまと語り合っていたのは、エルサレムで成し遂げられようとしているイエスさまの《エクソドス》のことでした。このギリシア語は「出ていくこと」という意味であり、ヘブライ11章22ではイスラエルの出エジプトの出来事を指し、出エジプト記の書名としても用いられています。いまイエスさまがエルサレムで成し遂げようとされている《エクソドス》とは、十字架上の死と復活とによってイエスさまがこの世から出ていかれる出来事を指しています。

ですから、イエスさまの受難予告によって始められた救いの業の告知が、きょうの個所で締めくくられていると見ることもできます。イエスさまの救いの御業は、イエスさまが苦しまれ殺されることで終わるのではなく、栄光に満ちた神の支配によって終わるのです。ここでは、その御支配の完成が先取りされて現されているのです。《ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる》(9章1)と言われたことが実現しているのです。

この栄光の姿を見て、ペトロは思わず、仮小屋を三つ建てようと提案したのですが、たちまち雲が現れて彼らを覆い、イエスさまの姿は隠され、その雲の中から声がします。《これはわたしの愛する子。これに聞け》。この声は、イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、聖霊によって聞いた声と内容は同じです。そのときはイエスさまに向かって「あなたは・・」と二人称で語られましたが、ここでは弟子たちに向かって、イエスさまが神の子であるという啓示が三人称で語られます。そしてここでは、「あなたがたは彼に聞け」という世界に対する神の呼びかけが続きます。イエスさまに聞き従うことが、神に聞き従うことになる、このことは、マルコ福音書全体の主題です。

ペトロは、苦しむ救い主が予告されたとき、イエスさまをわきへ連れていさめました。自分の願う方向へと導こうとしたのです。また、栄光のイエスさまの姿が現されたとき、自分のもとに留めておこうとしました。ペトロは、自分の思いに従って、一方でいさめ、一方で仮小屋を建てようとしました。そのようなペトロや弟子たちに、イエスさまの御言葉に聞くようにとの声が告げられます。この方の御言葉に聞くことによってのみ、私たちはイエスさまの栄光に触れることができるのです。イエスさまに聞くとは、繰り返し、主の御言葉に心を留め、そこで示される苦しみと復活の栄光に包まれたイエスさまの姿を新たに示されつつ歩むことです。

《一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた》。

ここで、だれにも話すなと言われているのは、まだイエスさまの復活を経験していない弟子たちが、分からないままこの山上の出来事を語ったとしても、イエスさまのメシアとしての本質が誤解されることになり、イエスさまの栄光を現すものとはならないからです。しかし、このとき、弟子たちは、確かに、復活について語られる言葉を心に留めたのです。はっきりとは分からない中であっても、山の上でイエスさまの栄光の姿が現されたからこそ、復活を語るイエスさまの言葉に留まり続けることができたのです。

このとき弟子たちが神の栄光に触れた高い山とは、私たちにとっては一週間ごとに集められ、守られる礼拝の場であると言うことができます。礼拝において、復活して今も生きておられる神の子イエスさまが共にいてくださることを体で感じ取っていくのです。そして、イエスさまの栄光を示されつつ山を下りるのです。そこから始まる歩みの中で、私たちは疑いや、迷いを経験します。神の言葉を否定しようとする神に背いた時代を歩む中で、イエスさまの救いの御業が弱く惨めなものに思われることがあります。しかし、礼拝における恵みの体験に支えられて、イエスさまの復活によって示された神の救いの支配の完成を目指して、イエスさまに従って、自分の十字架を背負いつつ、終わりの日に栄光に与ることを望みつつ歩むのです。きょうの礼拝においても、私たちに「これはわたしの愛する子。これに聞け」と語りかけているのです。神の支配の完成がはっきりとは分からない中にあっても、イエスさまによって確かに示されている神の支配の到来を告げる御言葉に留まりつつ歩む者でありたいと思います。