顕現節第6主日 説教
中風の人をいやす
- 2015年2月8日(日)
- 顕現節第6主日
- マルコ2章1~12
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
《数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった》。
イエスさまはガリラヤ湖の北西岸にある町カファルナウムの会堂で公に宣教を開始しました。その後、弟子たちを伴ってガリラヤ中の町々村々を巡回して人々に教え、病気をいやし、悪霊を追い出して、いま再びカファルナウムの家に戻ってきました。するとたちまち大勢の人々が集まってきて、休む間もとれません。
癒すことのできるお方のところに癒されたい人が集まる、それは、ごく自然なことのようであって、実はとても不思議なことなのです。聖なる神の顕現に接するのは恐ろしいことです。カファルナウムの人々はイエスさまが「権威ある者」として教え、汚れた霊に取りつかれた人から悪霊を追い出すという、神の権威と力の顕れを目の当たりにしていました。神の権威に直接触れるなら、ユダヤ人ならばまずは恐れおののくのです。あの預言者も聖なる神の臨在に触れたとき、《災いだ。わたしは滅ぼされる》(イザヤ6章4)と叫んでいます。ユダヤ人は聖なる神を知る民です。神をせいぜい願い事をする対象ぐらいにしか考えていない人々ではありません。
ですから、イエスさまを通して神の権威が顕れたとき、病気の人や悪霊に取りつかれた人たちが集まるのは、当然のことではないのです。にもかかわらず、病人、悪霊に取りつかれた人、罪に縛られている人、自分をコントロールできない不自由な人、苦しんでいる人たちが集まってきました。彼らがイエスさまを通して触れたのは、裁きの神ではなくて、憐れみの神、救いの神の権威と力だったからです。
イエスさまが権威をもって教えておられたのたのは、《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》(1章15節)と書かれているように、何よりも神の救いの到来でした。イエスさまの御言葉とは、ご自身が世に来られたことによって、神の御支配が近づいていることを宣言する言葉です。人々が聞いたのは、罪を赦し、憐れんでくださり、救ってくださる神です。ですから、福音書の後の方に見るように、病気とは関係ない罪人や徴税人もまたイエスさまの周りに集まってきていたのです。
《イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした》。
きょうの集会も、戸口の辺りまですきまのないほどになりました。《イエスが御言葉を語っておられると》と書かれているように、人々は御言葉を聞くために集まっているのです。もちろん病気の人たちは癒されたかったでしょう。しかし、それよりも何よりも彼らは、「あなたは神から見捨てられてはいない」ということを聞きたかったのです。神は私にとっても憐れみの神であり、救いの神であるということが聞きたかったのです。罪の赦しと救いをもたらす神の権威に出会いたかったのです。
中風の人と四人の男たちの思いも同じでしょう。彼らの求めは、ただ病気が治ることではなく、もっと根源的なものであったに違いありません。彼らは、病気になれば、「あなたの病気はあなたの罪のためだ」と言われる社会に生きていました。彼もそう言われてきたことでしょう。確かに、あなたの罪だと言われれば、さまざまなことが思い起こされるものです。「自分は絶対に潔白だ」と言い切れる人は、そうそういないでしょう。ですから、病気の苦しみであれ、別の何かの苦しみであれ、神のことを考えるならば、そこはどうしても、やはり根源的な問いに行き着くのです。私は神に見捨てられてしまうのか、それとも神は私の罪を赦し、私を憐れんでくださるのか。神は裁きの神なのか、それとも救いの神なのかと問わざるを得ないのです。
それゆえに、彼らはイエスさまのいる家に来たのです。彼らは何よりも福音そのものであるイエスさまに近づきたくて来たのです。そこで憐れみの神、救いの神に出会うために、彼らは屋根に穴をあけたのです。イエスさまが御言葉を語っている集会に、なんとしてでも参加しようとしたのです。当時の家は平屋で外階段が付いていて屋上に上がれるようになっていました。屋根は平らで、梁と木の枝を編んだものの上に、粘土などを水で練って固めたもので造られていて、穴をあけるのは困難ではなかったそうです。それにしても屋根に穴をあけてつり降ろすという行為は極端です。自分の家の屋根がはがされる光景を目撃したシモン・ペトロはさぞ驚いたことでしょう。
《イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した》。
イエスさまはその行為の中に、福音を求める彼らの信仰を見ました。それで、イエスさまは彼らが一番聞きたかった言葉を、神の権威をもって宣言したのです。《子よ、あなたの罪は赦される》。これは、罪の結果として病気になったと言っているのではありません。病のことではなく、人間の根源的な罪について言っているのです。また、日本語ではなんとなく「いつか後の日に赦される時が来るでしょう」という感じがしますが、イエスさまが言っているのは、「今、ここにおいて、あなたの罪は赦される」ということです。ですから、「あなたの罪は赦された」と完了形にしている写本もあり、口語訳聖書はその読みを採用していました。そこで中風の人も連れてきた四人の人も、憐れみの神、救いの神に出会っているのです。彼らだけでなく、その集会に集まっている人々もまた、そこで憐れみの神、救いの神に出会っているのです。
ここでもう一つ注目したいのは、イエスさまが中風の人ではなく、彼をイエスさまのもとに連れて来た四人の友人たちの「信仰」を見ていることです。その彼らの信仰を見て、イエスさまは《子よ、あなたの罪は赦される》と言われたのです。これは、イエスさまが私たちの執り成しの祈りを喜んでくださるということでしょう。私たちの周りには、執り成しを必要としている人が必ずいるということを忘れてはならないと思います。教会にとって「執り成し」は不可欠なものです。さまざまな理由で、イエスさまのもとに来ることができない人、神の救いから離れてしまっている人のために代わりに祈るのです。逆に、私たち自身もまた、執り成されているのです。私たちが祈れないとき、イエスさまを見失っているときに、私たちの背後に祈っている方がいる、また教会の祈りがあるということです。それは、イエスさまご自身が、私たちのために、神に執り成してくださった方であるからに他なりません。
さて、律法学者たちは、イエスさまがシモン・ペトロの家にいることを聞いて、駆けつけていました。そして、イエスさまの宣言を聞くと、《この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか》、と考えました。イエスさまはそれを知って、律法学者たちに言います。《中風の人に「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいか》。そして、《人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう》と言って、イエスさまは中風の人に宣言します。《わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい》。するとその人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行きました。人々は驚きました。律法学者たちも驚いたことでしょう。
イエスさまにとっては、「起きて、床を担いで歩け」と言う方が簡単なのです。病気を癒す奇跡の言葉よりも、「あなたの罪は赦される」という言葉の方が、ずっと重い言葉なのです。実際に、神は私たちの罪を赦すために、ひとり子の十字架上の苦しみと死という犠牲を払われました。それに比べれば、病が癒されることは、罪が赦され、神の国が来たことの「しるし」に過ぎません。
イエスさまには罪を赦す権威があるのです。人々は、イエスさまが《地上で罪を赦す権威》を持っておられることを知り、神を賛美した、書いてあります。マタイ福音書ではもっとはっきりと、《群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した》(マタイ9章8)とあります。
この《どちらが易しいか》というイエスさまの問いは、「あなたにとってどちらが重要ですか、どちらを本当に神に求めているのですか」と、私たちにも問いかけています。病気で苦しむ人を前にしたら、ひたすら癒しを求めるだけになり、神との関係の回復は関心の外、「罪の赦し」を空しいものと思ってしまわないでしょうか。でも、私たちの救いは、神の力を自分の生活に利用することにあるのではなくて、神と共に歩むことにあるのです。病の癒しだけでなく、罪の赦しでさえ、私たち人間の側だけが求めているのであれば、人間の願望のために神を利用することになります。私たちは、神の側こそが人間の癒しを、赦しを熱心に望んでおられることを、イエスさまの生涯を通して知ることが大切です。その中で、私たちは悔い改めて、神の福音を信じる者となるのです。イエスさまのもとにこそ、私たちは裁きの神ではなく、救いの神に出会うからです。この世が「癒し」と呼ぶものよりも、もっと深い根源的な癒し、私たちすべての人に必要な癒しがあるのです。イエスさまは中風の人に《子よ、あなたの罪は赦される》と言われましたが、この宣言は、いま私たちにも向けられているのです。