顕現節第5主日 説教
ガリラヤ宣教の旅
- 2015年2月1日(日)
- 顕現節第5主日
- マルコ1章29~39
すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
《すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした》。
イエスさまと弟子たちは、ある安息日にカファルナウムの会堂で礼拝をしました。この会堂でイエスさまは初めて公に御言葉を語り、癒しの業を行ったのでした。
このシモンは、シモン・ペトロという名でよく知られているイエスさまの弟子です。シモンという名は生まれたときからの名であり、ペトロという名は、マタイ16章によると、イエスさまが後からつけた名前です。ですから、このシモンという人に初めから親しみを持っていた人たちは、ペトロと呼ぶよりも、シモンと呼ぶ方が慣れていたのでしょう。
イエスさまがシモンとアンデレの家を訪ねたのは、おそらく食事をするためでしょう。弟子たちは、つい先ほど、会堂の中で耳にしたイエスさまの権威ある教え、はっきりとその目で見た不思議なみ業に気持ちが高ぶらせて、いったい自分たちの先生はどのような方なのだろうかと思い巡らしながら、イエスさまの後に従って行きました。もしかすると、シモンが是非にと言って、イエスさまを家に招いたのかもしれません。会堂で起こったことの意味について、詳しく知りたかったでしょうから。
ところが、家に着いてみると、シモンの姑(しゅうとめ)が熱を出して寝込んでいました。シモンは妻の母を引き取っていたのです。シモンは、後には伝道旅行にも妻を伴ったことがⅠコリント9章5に記されています。そこでは、シモンとその妻が、夫婦ひとつとなって共にイエスさまのことを伝えている姿が描かれています。そのシモンの姑が熱を出し寝込んでいます。人々は早速、そのことをイエスさまに伝えます。弟子たちは、何とかしてくださるとイエスさまに期待をしたことでしょう。イエスさまは彼女の手を取って起されました。この「起こす」とい言葉は、後にイエスさまの復活する場面で「復活させる」という意味で出てきます。キリストと共に葬られ、キリストと共に復活し、新しい命に生きるという、洗礼の恵みを指し示すような出来事だったのです。イエスさまは病める者の遠くにいるのではなく、病める者の近くに行かれるのです。イエスさまは今も私たちに近づき、手を差し伸べて起こそうとされるのです。
シモンの姑は、熱が引いて一行をもてなしました。「もてなす」という言葉は、「仕える」「給仕する」「世話をする」などと訳せる言葉です。具体的には、食事の準備をしたのでしょう。それは、病が完全に治ったことの確かなしるしであると同時に、イエスさまに癒されて弟子となったしるしです。悪霊や病気からの解放は、イエスさまの教えを聞き、イエスさまに仕える者となることをもたらしました。癒しのみ業は、福音を聞くことを妨げている力をイエスさまが打ち破ってくださり、福音を信じてイエスさまに仕えて生きることができるようにしてくださることを示すためになされているみ業なのです。
この癒された姑は、この家において真っ先にイエスさまに仕えました。イエスさまが家に来られたとき、もてなしたのは、弟子たちではなく、姑だったのです。彼女は、イエスさまの癒しにあずかったとき、ただ黙々とイエスさまと人々に仕える道を選んだのです。福音書は、イエスさまの弟子であることの模範的な姿を、しばしば名前も記されないような女性たちの姿によって描いています。十字架への道が進むにしたがって、弟子たちはイエスさまに従う道を歩みながらも、イエスさまのことを理解せずに、自分の思いを満たそうとする姿が鮮明になって行きます。しかし、そのような男弟子たちの歩みと全く違った仕方でイエスさまに仕える女性たちの姿が記されるのです。そのような姿を通して、イエスさまの弟子としてのあり方が示されているのです。イエスさまに癒され、イエスさまの救いにあずかって、仕える者となる。そこに、イエスさまの弟子としての姿があります。イエスさまの前に、自らを低くして仕える姿です。
このシモンの家での出来事は、他のイエスさまの癒しに比べて小さく地味なことであって、あえて記すまでもないように思います。しかし、この出来事はマタイ福音書にもルカ福音書にも記されているのです。ここには、私たちがイエスさまの後に従うときに忘れてはならない大切なことが示されているように思います。と言うのは、日本では家族と一緒に礼拝を守る人は決して多くありません。ですから、心の中で、イエスさまによる自分自身の救いと、自分の家族の救いということを分けてしまうことがあるのではないでしょうか。イエスさまが会堂を出て、シモンの家に行かれたということは、私たちがともすると軽んじてしまう家族のところに真っ先に赴いているのだと言えるでしょう。人はイエスさまに従うとき、イエスさまご自身が家族に関わってくださるのです。
《夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである》。
イエスさまの噂は、たちまち方々の町や村にまで伝わりました。人々は安息日の日が暮れを待ちかねていました。安息日は、律法の規定によって、病人を連れて来るような仕事はしてはならないと決められていたからです。日が沈み、安息日が終わると同時に、シモンの家の前は病人や悪霊に取りつかれた人たちでいっぱいになりました。イエスさまはご自身のもとに集まってきたすべての人を癒されました。その癒しの業はおそらく夜遅くまで続いたことでしょう。私たちもまた、イエスさまのもとに来るとき、すべての重荷や思い煩いをイエスさまに委ねることができます。病でさえも癒されることを信じ望んでよいのです。
ところが、マルコ福音書はこう書き添えています。《悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである》。イエスさまは、神の子としての権威をもって、病を癒し、悪霊を追い出されます。しかし、そのような目に見える不思議な業だけで、ありがたい救い主として受けとめられることを望んではいないのです。癒しのみ業は、福音を宣べ伝えることの一環としてなされています。私たちが悔い改めて福音を信じて新しく生きることを妨げようとするさまざまな力をイエスさまが打ち破り、イエスさまを信じて従う歩みへと解放してくださることのしるしなのです。驚くべき救いの福音の中身が十字架と復活によって明らかに現されるときまで、イエスさまはご自身の栄光を隠しておられるのです。
《朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された》。
イエスさまは夜遅くまで働かれましたが、朝早く起きてただ一人で人里離れた所へと向かわれました。シモンたちはイエスさまの姿が見当たらないので、みんなで捜し回り、やっとのことで町を離れた場所でただ一人祈っておられるイエスさまの姿を見つけました。イエスさまは祈るために特別に一人になる時間を持っていたのです。イエスさまの驚くべき力あるみ業の秘密は、この「祈り」にありました。父なる神に祈ることにより、イエスさまは癒しの力、悪しき思いを追い払う力を与えられていたのです。押し掛ける群衆はただ自分のことしか考えません。イエスさまはどれほど忙しかったことでしょう。しかし、多忙であるにもかかわらず、祈られたのではないのです。多忙であったからこそイエスさまは祈られたのです。それは、ご自分と父なる神との交わりの時間であり、私たち人間のために執り成してくださる時間でした。シモンとその仲間たちはイエスさまの後を追い、見つけると、《みんなが捜しています》と言いました。するとイエスさまは言われました。《近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである》。これは、「さあ我々はこうしよう」という呼びかけの言葉です。イエスさま一人が他の町や村へ行くのではなくて、弟子たちと一緒に、福音を告げ知らせる使命を果していこうとしておられるのです。口語訳聖書はここを、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう」と訳していました。つまり、このイエスさまの言葉は、弟子たちを福音の宣教の働きへと招き、また伴おうとしているのです。その働きの中心におられるのはもちろんイエスさまです。神の国の福音を宣べ伝え、人々に「悔い改めて福音を信じなさい」と促す使命はイエスさまにこそ与えられており、それを行なっていくのはあくまでもイエスさまです。しかしイエスさまはその宣教の働きに弟子たちを伴って行こうとしているのです。
イエスさまの祈りは、ご自身の宣教と癒しの業のための祈りであるだけでなく、弟子たちのための祈りでもあったのです。イエスはこれから弟子たちを宣教の旅に同行させ、イエスさまが神の国の福音を告げ知らせ、それを妨げる悪霊を追い出し、病を癒す、そのみ業を彼らに見せ、体験させることによって、彼らが将来イエスさまによって遣わされて、全世界に出て行って福音を宣べ伝えるための備えをさせようとしておられるのです。イエスさまはその弟子たちのために、朝早く、まだ暗いうちから祈ってくださっていたのです。そのイエスさまについて行くことが私たちの信仰です。