Sola Gratia

顕現節第4主日 説教

説教と癒しの始め

一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

《一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた》。

いよいよイエスさまと弟子たち一行の歩みが本格的に始まります。カファルナウムはガリラヤ湖の北西岸にある町です。最初の弟子となったシモンとアンデレの家がそこにありました。カファルナウムのこの家が、イエスさまのガリラヤにおける伝道の拠点となりました。しかしイエスさまはこの家に人々を集めてそこで伝道をしようとしたのではありません。安息日に会堂で教えることによって伝道が開始されたのです。

イエスさまがカファルナウムの会堂で何を語ったかをマルコは述べていません。しかし、《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》(1章15)ということを、カファルナウムの会堂でも語ったに違いありません。神の国は近づいています。神の国つまり神のご支配をまともに受け止めて、それに応答しなければなりません。それが、「悔い改めて福音を信じる」ことです。

会堂とは、「シナゴーグ」という言葉で、ユダヤ人たちが集会をする場所のことです。ユダヤ人たちは、安息日には会堂に集まって、聖書を共に学んでいました。中でも律法についての教えを律法学者たちから聞くという形の集会をしていたのです。エルサレムの神殿が破壊されても、故郷から追放されて世界の各地に散らされていっても、なお自分たちの信仰と伝統を守り続けることができたのは、この会堂における安息日の礼拝が行われていたおかげなのです。この安息日に会堂で行われていたユダヤ人たちの礼拝が、キリスト教会の日曜日の礼拝の起源ともなったのです。イエスさまはこの安息日の会堂における礼拝に出席して、そこで教えを語りました。イエスさまの教えは、イスラエルの民の礼拝において語られるべき主なる神のみ言葉だということです。安息日に会堂で、礼拝の中で語られることによってこそ、それは神の言葉、神からの教えとして語られ、また聞かれるのです。

《人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである》。

カファルナウムの人々は、安息日に会堂で語られたイエスさまの教えを聞いて、非常に驚きました。それはイエスさまが、《律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから》です。律法には様々な細かい規定がありますから、日々の生活の中で、このことは律法ではどう教えているだろうかと迷うことが出てきます。また時代の移り変わりの中で、昔はなかった問題が生じてきて、律法にはその問題に直接的にはあてはまる掟が見当たらないようなことも起ります。そのような時に、その問題にはこの律法をこのように解釈して応用すればよいというふうに律法の解釈と応用を教えてくれるのが律法学者です。ユダヤ人たちはそのような律法学者たちの教えをいつも聞いていました。それと比較すると、イエスさまのことを彼らは「権威ある者として教えている」と感じました。それは律法学者たちの教えに権威がないということではありません。神のみ言葉を正しく解釈し応用する限りにおいて、彼らの教えも権威あるものとなります。しかしその権威は彼ら自身の権威ではありません。律法の権威、神のみ言葉の権威なのです。それに対してイエスさまは、ご自身が権威を持っておられる方として教えているということです。イエスさまは、「時は満ち、神の国は近づいた」と宣言しておられるのです。そしてその宣言に基づいて、「悔い改めて福音を信じなさい」という勧めを語っているのです。この勧めは、律法にこういう掟がある、聖書にこう書いてある、だからこうしなさい、という教えではありません。イエスさまは、「時は満ち、神の国は近づいた」という、神の救いのみ業における新しい事態をもたらした本人として、その新しい事態に即した新しい生き方を人々に求めたのです。そのことが、人々を驚かせた、こんな教えはこれまで聞いたことがない、と思わせたのです。

信仰は、神のみ言葉に驚くことから始まるのです。律法学者のような教えからは驚きは生まれません。倫理、道徳の教えというのは、基本的に私たちがすでに知っていることです。驚くというのは、それまで全く知らなかった、聞いたことのなかった、人間の常識にない、つまり倫理道徳の教えには出て来ないようなことが示されるということです。「時は満ちた、神の国は近づいた」というのは、自分がすでに知っていること、分かっていること、理解していることを超えた新しいことが、今や神によって引き起こされようとしているということです。そして「悔い改めて福音を信じなさい」。これは、聞く者に悔い改めを迫る言葉です。悔い改め、つまりそれまで歩んで来た道の方向転換を求めているのです。神から顔を背けて、他の方向を見つめて歩んでいる者が、神の方へと向き変わり、神に従って歩む者となる、そういう決断を求めているのです。それは同時に「福音を信じなさい」という勧めでもあります。福音とは、神による救いを告げる良い知らせです。それを信じる、つまり神による救いの恵みを受け入れ、それにあずかることへと招いているのです。それは、あなたはどうするのか、悔い改めて福音を信じるのか、それともそれを拒み、あくまでも自分の思いによって生きていくのか、という決断を求めているのです。「権威ある者として」というのはそういうことです。あなたは今のままでよいのか、変わらなければならないのではないか、という問いの前に立たせ、そして、あなたは変わることができる、新しくなることができる、という招きを告げるのです。

《そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった》。

イエスさまが権威ある者としてお語りになり、人々が驚いた、しかしすぐに、一人の男が叫び出しました。彼は《かまわないでくれ》と叫びました。係わりになりたくない、ほっといてくれ、と言っているのです。イエスさまが、権威ある者としてお語りになる時、驚きと共にこういう反応が生じます。この男に取りついた汚れた霊は、イエスさまに対して「ナザレのイエス」と名前を呼び、「お前の正体は分かっている」としきりに叫びます。古代では、相手の名前を呼ぶことも、相手の正体を見抜いていると知らせることも、自分が相手よりも優位にあることを意味するのです。

悪霊は、人間に取りつき、様々な病気、特に心の病を引き起こすものと考えられていました。今日は医学が進んで、心の病をそのように悪霊の仕業と考えることはなくなりました。しかしだからといってこの悪霊を昔の人の無知の産物として否定してしまうことは軽卒です。私たちの心を支配し、イエスさまに対して、「かまわないでくれ、ほっといてくれ」と敵意をもって叫ぶように仕向ける悪霊は、病気とは関係なく、今も、私たちの間で力を奮っています。その悪霊に取りつかれる時、私たちは、イエスさまを信じ従うことができなくなるだけではなくて、神のみ心よりも自分の思い、考え、願いを第一とするようになり、それに反対し、妨げる者を敵と見なして対立するようになるのです。個人の人間関係においてもそれが起るし、さらには国民全体が、あるいは民族のレベルでそういう敵意に捉えられてしまうことも起ります。一人ひとりはおとなしい善良な人間が、そのような敵意に捕えられると、残虐な悪魔になってしまうことがある、そういうことは日本人においても起りました。私たちは、悪霊の力や働きを決してあなどってはなりません。科学が進歩すればそういうものは消えてなくなる、などということは全くないのです。むしろ今この社会において、悪霊がどのような力を奮っており、それに取りつかれることによって何が起っているのかをしっかり見極めていく必要があるのです。

イエスさまはこの悪霊と対決し、悪霊に「この人から出て行け」と??りつけました。「??る」というのは、神の力を示すときに使われる言葉です。すると悪霊は出て行きました。つまりイエスさまは悪霊に勝利し、それに取りつかれている人をその支配から解放してくださったのです。イエスさまの権威ある教えはそのために語られたのです。「時は満ち、神の国は近づいた」という宣言は、神が悪霊の力を打ち破って、神のご支配を確立なさる時がいよいよ来たということです。神は、悪霊に支配されている私たちを裁いて滅ぼそうとしているのではなくて、悪霊を滅ぼして私たちを解放し、救いにあずからせようとしておられるのです。イエスさまの権威ある教えを私たちはそのように聞かなければなりません。つまりイエスさまは私たちに対する裁きを告げているのではなくて、神による救いを、福音を告げておられるのです。

イエスさまの悪霊との戦いは、ここで終わったのではありません。それはイエスさまの十字架の死にまで至る戦いでした。その戦いにおいて私たちの全ての罪を背負い引き受けて、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。このイエスさまの十字架の死によってこそ、私たちを支配している悪霊は滅ぼされ、私たちの解放が、即ち罪の赦しが実現したのです。イエスさまの神の子としての権威は、つまり神の恵みの勝利は、この十字架の死において、そして父なる神がそのイエスさまを死者の中から復活させ、永遠の命を生きる新しい体をお与えになったことにおいて示されました。神がそのひとり子イエス・キリストを遣わし、その十字架の死と復活によって私たちを罪の支配から解放し、神の子として生きる新しい命を与えてくださった、この出来事によってこそ、イエスさまの神のひとり子としての権威が示されています。このイエスさまのご生涯の全体を驚きをもって見つめることから私たちの信仰は始まります。そこには、私たちの知らなかった、倫理道徳の教えによっては決して得られない、私たちを悔い改めさせ、神の救いの恵みにあずからせる「権威ある新しい教え」があるのです。