Sola Gratia

主の洗礼 説教

イエス、洗礼を受ける

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

《そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。》

「イエスさまは・・来た」。マルコ福音書は、この出来事を、どのように生まれかとか、洗礼を受けるまでどのように過ごされたのかということは何も語らず、ガリラヤのナザレからヨルダン川で洗礼を受けるためにヨハネのところへ来たということから語り始めます。マルコにとって、イエスさまが洗礼を受けられたことこそが、「イエスは・・来た」出来事だと言います。

ところで、ヨハネは、悔い改めの洗礼を宣べ伝えて、こう言っています。《わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる》(マルコ1章7~8)。

そうであれば、イエスさまがヨハネから洗礼を受けるのはおかしなことです。それに、ヨハネが授けた「洗礼」は、「悔い改めの洗礼」です。「悔い改める」という言葉は「帰る」とか「戻る」という意味合いの言葉です。間違った方向に進んでしまったことに気がついて、道を振り返り、元の場所に戻ってくる。それが悔い改めです。罪のないイエスさまにそのような洗礼は必要なかったはずです。マタイ3章14のヨハネの言葉にもあるように、むしろ洗礼を授けるべきお方です。

ところが、イエスさまは、ヨハネに洗礼を授けてもらおうとしてやって来た大勢の群衆の中に入って、彼らと同じように洗礼を受けられました。ご自分のために洗礼を受ける必要のないイエスさまが「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」をお受けになったのは、イエスさまがご自身を悔い改めるべき罪人の立場に置き、罪人のひとりになられた、私たちと一つになられたということなのです。そこに私たちの福音の初めがあります。

《水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。》

イエスさまは、群衆と同じように洗礼を受けたのですが、それは全く新しい出来事でした。イエスさまの洗礼は、ヨハネの洗礼とは異なるものが始まっているのです。

「天が裂ける」という言葉は、イザヤ書63章19に出て来ます。《あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように》。

つまり、イエスさまの洗礼において「天が裂けて」神の新しい恵みの御業が始まって、イエスさまの上に御霊が降ったのです。しかし、それは稲妻がひかり、雷鳴がとどろくという黙示録的な光景においてではなく、神が選ばれたひとりの人に神の霊が降るという形で実現しました。この聖霊によって、後にイエスさまは聖霊による洗礼を授けてくださるのです。それが、前段で引用したマルコ1章8でヨハネが預言したことであり、ペンテコステ(五旬祭、聖霊降臨祭)の日の教会の誕生において実現したのです。その恵みが、今このイエスさまの受洗において聖霊が降ることで始まったのです。

《すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。》

聖霊によって結ばれて、イエスさまは御父の声を聞きます。ここに、イエスさまは神の独り子であることがはっきりと示されています。聖霊が降ったことによって、イエスさまは特別な使命、任務へと立てられました。その使命、任務の内容が、この天からの声によって明らかにされているのです。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この言葉の背景は、きょうの第一朗読で聞いています。《見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す》(イザヤ42章1)。「わたしの心に適う者」という言葉は、この「わたしが喜び迎える者」から来ているのです。

「わたしの心に適う者」は、悪しき支配を打ち砕く、そして神の民を解放する、神の正義を国々の間に樹立する、と言うのです。このような救い主こそを期待しているのだと、人々は思ったことでしょう。しかし、イザヤの預言はこう続きます。《彼は叫ばす、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする》(2~3節)。

悪しき力、支配に対して、武力でもって解放をもたらす救い主というのは、誰もが期待をし、考えつく救い主です。けれどもこの「神の僕」は、人々が思い描く救い主とは全く異なるものでした。力をもって力を制するのではなく、弱い者の弱さを担いながら、人の目には見えない深いところで、確実に神の救いの御業を成し遂げる、と言うのです。この神の僕によって、神の救いの歴史が始められ、担われていくのです。この神の僕こそ、神が選び、御心に適った者として喜び、その者の上に、神の霊が注がれるのです。神の霊が注がれる方こそ「神の僕」なのです。いつの時代でも、人間はまさにそのような傷ついた葦であり、暗くなっていく灯心のような存在です。そのような傷つき易い、消えそうな人間を生かし、慰め、癒す中で救いをもたらす道を切り開いてくださった方が、神の僕として預言されたイエスさまです。捕らわれの中にいる全ての民に対する、神の救いのみ業です。

聖霊を受ける体験は、御言葉を受ける体験です。「あなたとわたし」という一対一の次元で直接語りかける御言葉を受ける体験です。これが、聖霊体験の本質面であって、幻や異言などの不思議な現象は外面的な現れにすぎません。御霊を受けるとき、言葉は聴きますが語りかける方(神またはキリスト)の姿は見えません。しかし、語りかける人格の圧倒的な実在を実感します。これは、「天から声が聞こえた」としか表現のしようがないのです。

もちろん、同じく神の霊を受ける体験であるといっても、イエスさまの場合と私たちの場合では根本的に違う点があります。それは、イエスさまは本来罪なき方、神への背きが全然ない方として、神から直接聖霊をお受けになったのですが、私たちは生まれながらの自我を立てて神に背く者であって、そのままでは神の霊を受けることはできないことです。私たちは復活されたイエスさま、すなわちイエス・キリストを信じ、この方に合わせられることによって、イエスさまの十字架の死において成し遂げられた贖罪にあずかり、復活されたキリストを通して神から聖霊の賜物を受けるのです。

さて、イエスさまが受けた洗礼は、イエスさまの受難と深く結びついています。イエスさまが、ご自身の受ける苦難を「洗礼」と言っている箇所があります。イエスさまが三度目に十字架の死と復活を予告された後、弟子のヤコブとヨハネが栄光の座を求めたときのことです。《あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか》(マルコ10章38)。

イエスさまは、神から見捨てられ十字架で死なれる、そのことを「わたしが受ける洗礼」と言っているのです。イエスさまの洗礼は、ご自身を十字架での苦難、死へと導くものでした。私たちの罪のための苦難を受けることがイエスさまにとっての洗礼なのです。十字架の死において、イエスさまは、本来私たちの受けるべき裁きを受け、私たちの代わりとなって、私たちの罪を引き受けてくださいました。そのことによって、この方による赦しが私たちのものとなるのです。

この事実を知らされるとき、私たちは、自らの罪を悔い改めるのです。私たちは自分で自分の罪を悔い改めるのではありません。いや、むしろ、私たちは自分の罪を悔い改めきれないということに、私たちの罪があると言えると思います。私たちが悔い改めることができるとしたら、それは、イエスさまの洗礼、十字架の苦しみを示される時です。イエスさまが十字架に架からなければならない程までに、私たちは罪人であった。イエスさまの洗礼から自分振り返る。その時に真の悔い改めが起こるのです。そして、そこからイエスさまと共に新たな命に生き始めるのです。

洗礼を受けるとは、このイエスさまと結ばれることです。先ずイエスさまがその洗礼を受けていてくださっている。そして、このイエスさまの洗礼に連なることによって、私たちもイエスさまと共に「神の子」とされています。イエスさまが受けられた洗礼が私たちの洗礼の根拠です。洗礼は、私たちの唯一つの救いの根拠となっています。イエスさまの洗礼に私たちも連なっているからです。そこにのみ、たった一つの救いのしるしがあるのです。

私たちは福音、すなわち復活された主イエス・キリストの言葉を、神からの最終的な呼びかけとして受け、このキリストの中に自己をすべて浸し入れることによって(水の洗礼はこの信仰の告白である)、神が約束してくださっている聖霊を、恵みの賜物として受けるのです。そして、イエスさまが御霊によって「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御言葉を聴かれたように、私たちも注がれる聖霊によって神の愛が注がれていることを実感し、神の子とされていることを知るのです。また、イエスさまがこのとき聖霊によって「主の僕」としての召命を受けられたように、私たちも聖霊を受けるとき、もはや自分の意志や願いによって生きるのではなく、神の意志を行うことが人生の目標となり、使命となるのです。新しく始まったこの一年を、イエスさまと共に歩んでいきましょう。