Sola Gratia

聖霊降臨後第15主日 説教

謙遜と愛の勧め

イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

ルカによる福音書14章は、ある安息日にイエスさまがファリサイ派の議員の食卓に招かれた時の出来事が語られています。その冒頭の1節に、《安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた》とあります。ルカ福音書には、イエスさまがファリサイ派の人に招かれてその家で食事をするという場面が度々表われます。イエスさまは宴会の席に着いて人々と飲み食いし、語り合うことを喜んでいたのでしょう。きょうの箇所の続きの15節以下では、神による救いにあずかることを、盛大な宴会に招かれることに譬えています。救いにあずかることの譬えとして用いるくらいですから、宴会に連なり、食事を共にすることを、イエスさまは基本的に良いこと、恵みに満ちたこととして捉えているのです。

《イエスさまは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。》

当時の食事は、皆がコの字型に並んだテーブルを囲むように体を横たえ、上半身を起こして食事に手を伸ばすという形で行われていました。そのテーブルで、中央かどちらかの端が、主賓の座る席とされていることが多かったようです。ですから招待を受けた客たちはテーブルの中央や両端の主賓席から始めて、争うようにして上席を埋めていったと考えられます。

ファリサイ派の議員の家でのこの食事の席に招かれていた人々は、3節にあるように《律法の専門家たちやファリサイ派の人々》がほとんどでした。この人たちは、いつも人々から「先生」と呼ばれて尊敬を受け、招待されればいつも上席に案内されていたのでしょう。だから自分は上席に着くものだという感覚が身についていたのではないでしょうか。イエスさまはそういう彼らの姿を見て、婚宴に招待されたら、という譬えを話されました。

《婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。》

これは私たちがとてもよく分かる話です。特に私たち日本人は、末席の方に座りたがります。ここに出て来る人々のように我れ先に「上席を選ぶ」ような人はめったにいません。しかし、イエスさまがこの譬えによって教えようとしているのは、上席よりも末席に着く方が良いなどということではありません。この譬えのポイントは、上席に着いた者は後で末席の方に移動させられ、末席に着いた者は後で上席へと移動させられるということです。そのことによってイエスさまが語ろうとするのが、次の11節の言葉です。

《だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。》

これは一般的な教訓・ことわざとも受け取れますが、イエスさまがこの言葉によって、賢い立ち居振る舞いを教える処世訓のごときことを教えようとしているのではありません。そうではなく、自らが神のみ前で何も持たない者であること、ただわたしの憐れみに拠りすがらなければ生きることのできない者であることを知れ、あるいはそこに立ち返れ、そこでわたしの憐れみの中に生きるのだ、そう呼びかけるイエスさまの招きのみ声なのです。

イエスさまの言う「高ぶる」と「へりくだる」はどういう意味なのでしょうか。そのことは、12節以下のもう一つの教えと合わせて読んでいくことによって明らかになっていくと思います。

《また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。》

これは人を宴会へと招く時の話です。招かれた人がどの席に着くか、というこれまでの話とは別のことのようにも思われます。しかし、どの席に着くかということはたとえ話の題材として用いられているだけであって、肝心なことは「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということなのです。この話は、その「高ぶる者」と「へりくだる者」という言葉でイエスさまが何を考えているかを示しています。「友人、兄弟、親類、近所の金持ち」、これらが「高ぶる者」です。「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」、これらが「へりくだる者」です。そして両者の違いは何かというと、「お返し」ができるかできないかです。宴会に招かれたら、今度は自分の方も宴会を催してその人を招待する、そのようにお返しをすることができる人と、貧しくて宴会を催すことなどとてもできず、お返しをすることができない人、という対比が見つめられており、その貧しくてお返しのできない人をこそ招きなさいと教えられているのです。

そうすることによってこそ、《正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる》とあります。これは、この世の終わりの裁きにおいて、神が報いてくださるということです。このように貧しい人を招くことをこそ、神は喜んでくださるということです。神がそのことを喜んでくださるのは、神ご自身がそのような方だからです。主なる神の招き、救いとはこのようなものなのです。つまり神は、お返しができる者をではなくて、お返しなどできない、ただ恵みを受けることしかできない者をこそ招き、救いにあずからせてくださるのです。これが、《高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる》という言葉の意味です。高ぶる者とは、神に対して、自分でお返しができる、自分の中にも、神に与え、貢献することができるものがあると思っている者です。へりくだる者とは、神の恵みをただ受けるだけで何のお返しもできない、神に与えたり、貢献するようなものを何も持っていないと悟った者です。神は、自分はお返しができる、と思っている者はむしろ退けて、何のお返しもできない、と思っている者をこそ招き、救いにあずからせてくださるのです。

ですから、この「正しい者」とは、謙譲の美徳をそなえた立派な者を言うのではありません。自分の罪の汚れを知り、心の打ち砕かれた者こそが聖書の言う「へりくだる者」です。

イエスさまはそういう人を招きなさい、と勧めています。それは、イエスさまが高みに立って与えておられる命令などでは決してありません。むしろイエスさまご自身が、すべてに先んじてこれらの人たちと同じ低いところに立ってくださっているのです。いやすべてに先んじてこの私たちのところにまで来てくださったのです。私たちのいるところと同じ低いところにまで降り、共に歩んでくださった。痛みと苦しみを、悩みと悲しみをともに背負い、担ってくださったのです。

パウロはイエスさまのへりくだり、謙遜について、こう書いています。《キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです》(フィリピ2章6~11)。こうして見ると、あの《だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる》という言葉は、まず第一にイエスさまの死と復活のイメージにつながるものでした。

また、ヨハネもこう書いています。《愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります》(Ⅰヨハネ4章8~10)。神のみ前に私たちが立って、神からの愛を受ける時は、神に対してとうてい対等の立場などには立てるものではありません。それこそ、私たちは神にお返しなどできる筈はないのです。

そこで私たちは改めて示されるのです。私たちが自分では何物も持っていない。あの貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人たちと同じように、神のみ前に空の手で、ただ沈黙して神の憐れみのみ前に立たせていただくほかない者であるということです。イエスさまが神のみ前で、自己主張できる何物も持っていないこの人たちをこそ憐れみ、愛してくださった。この人たちのために十字架にかかり、その罪を代わって担ってくださり、そして死の中から甦り、新しい命に生きる道をここに切り開いてくださっています。私たちはこの救いの恵みを受けるだけで、神に何もお返しすることができない者です。しかし、神はそのような私たちをこそ、神の国の宴会の席へと招いてくださっているのです。