聖霊降臨後第14主日 説教
狭い戸口
- 2013年8月25日(日)
- 聖霊降臨後第14主日
- ルカ13章22~30
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
《イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。》
ルカ福音書は9章51「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」から19章45「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた」までの11章の長きにわたってエルサレムへの旅の間の出来事を綴っています。それで、その間に繰り返して、イエスさまがエルサレムへの旅を続けていたと注記します。イエスさまは町々村々を巡り歩いて、神の国つまり神の救いが近づいたことを宣べ伝え、「悔い改めて福音を信じなさい」と人々を招いたのです。
そのエルサレムで、イエスさまは逮捕され、十字架にかけられて殺され、そして復活し、天にあげられました。神の救いは、イエスさまが十字架にかけられて殺され、そのイエスさまを父なる神が復活させることによって実現するのです。そこに、神の恵み、人に対する信実の愛が示されています。神は罪のない清く正しい人間を招くのではありません。むしろ、深い罪を負い、それによって生じる様々な問題をかかえて、苦しみや悲しみ、嘆きの中にある私たちを招き、イエスさまの十字架の死によってその罪をあがない、赦し、その復活にあずかる新しい命、永遠の命の約束を与えようとしておられるのです。罪人である私たちを招くために、イエスさまは十字架の死というまことに狭い、深い苦しみの戸口を通って、天に上げられ、それによって私たちのが神の国に入るための戸口を開いてくださったのです。
今、ある人が投げかけてきた質問、それに対するイエスさまの答えも、十字架と復活の光の中で読むことによって初めて、正しく受け止めることができるのです。
《すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。》
この人がどういうつもりでこの質問をしたのかは、明らかではありません。イエスさまがこれまでお語りになったことを耳にして、自分は救われないかもしれないと不安を感じたのかもしれません。なにしろここに至るまで、イエスざまは激しく悔い改めを求める言葉を繰り返していたのです。
イエスさまはこの質問に答えて、その人にではなく、周囲にいた「一同に」話されました。周囲の人々が皆、この人と同じ問いを抱いていることを感じ取られたからでしょう。私たちの心の中にもそういう問いがあるのではないでしょうか。イエスさまの、救いにまつわる発言には一見、難しいことを要求する言い方が多いですから。
《イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。》
「入ろうとしても入れない人が多い」ということは、救いに入ることができる人は少ないということです。なぜなら、そこに入るための戸口が狭いからです。この戸口は、多くの人が殺到するから狭くなるのではありません。もともと狭いのです。そこから入れる人が少ないのだから、狭い戸口から入るように「努めなさい」と言われているのです。この「努めなさい」という言葉は、勝利を目指して競技する、戦う、という意味です。ただし、それはライバルを蹴落とすための戦いではありません。この狭い戸口から入って救いにあずかるための各自の信仰の戦いです。イエスさまがここで人々に、つまり私たちに求めておられるのは、イエスさまを信じて従うことによってこそ救いが得られるという信仰への決断と、その狭い戸口から入ろうとする熱心さです。入ろうとしても入れない人が多いのは、入れてもらえないのではなくて、本当に入ろうと努めることをせず、入れるか入れないか、入ろうかどうしようかと考えながらうろうろしているからです。そういう人が多い、という意味で、救われる者は確かに少ないのです。それは神が厳しい裁きの神だからではなくて、本当に真剣に救いを求めようとする人間が少ないからです。
イエスさまがこの「狭い戸口」というたとえによって語ろうとしているのは、救われる者は少ない、ということではありません。イエスさまが語ろうとしていのは、救われる者が多いか少ないかという議論ではなくて、救いに入るために「努めなさい」という勧め、促しなのです。
もちろん、イエスさまによる救いはいつも私たちに先立っており、私たちに与えられるものです。私たちは受身です。しかし、その救いが真にこの私のものとなるためには、それを自分のものとして受け入れなければなりません。こう考えると、イエスさまが語る狭い戸口とは、私たちの救われる根拠が私たち自身には全くなくて、私たちのために十字架にかかってくださったイエスさまのみ業から来るということでもあることが分かります。
《家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。》
この狭い戸口を入って救いにあずかることには、タイムリミットがあります。最後の最後は、イエスさまが再び来て、この世が終わる終末の時です。その終末が来ることを私たちの人生において指し示しているのが、人の死です。私たちの人生には死というタイムリミットがあるのです。それが救いにあずかるための最終リミットなのかどうかを私たちは断言することができません。しかし、与えられている時には限りがあることを覚えて、救いの戸口から入るように熱心に努めることが求められているのです。
《そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。》
この人たちはイエスさまをよく知っている人たちです。つまり、この言葉は私たち自身、教会自身に向けられているのです。彼らは、イエスさまのもとに集い、その教えを聞いた、礼拝に出席してみ言葉を聞いた、聖書を読み、その教えを生活の中で生かそうとしていたかもしれません。いっしょうけんめい良い行いに励んでいたと言ってもよいでしょう。しかし彼らは救いに入ることはできません。
「不義を行う者ども」と言われていますが、別に彼らが特別に悪いことをした、大きな罪を犯した、ということではありません。ただ、彼らは狭い戸口から入らなかったのです。本当にイエスさまによる救いにあずかろうと熱心に求めることをせず、信仰の決断をすることなく時を過ごしたのです。そしてそのうちに戸は閉められてしまいました。「不義」とは、イエスさまの切り開いた狭い戸口を入らず、十字架の犠牲を無にすることを言うのです。
それではどのような人々が救いにあずかるのでしょうか。
《あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。》
神の国に入るのは「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たち」に代表される神の民です。しかし、ここで外に投げ出されている人々もイスラエルの民だと考えられます。ですから、イスラエルの血筋であるだけでは、神の国に入れるわけではありません。アブラハムもイサクもヤコブも、神の呼びかけに応えて旅立ちました。自分の願う通りになることが保証されていることを確かめた上でではなく、先行きどうなるか分からない中で、神の示される道を、神と共に歩んでいったのです。つまり彼らは、神と共に歩むという狭い戸口から入ったのです。彼らに罪がなかったわけではありません。いろいろな罪を犯し、失敗もしました。しかしその歩みの全ては、あの戸口の中での歩みだったのです。神の民とは、この歩みを受け継ぐ者たちです。
そして全世界から、神の民が集められて、神の国で宴会の席に着くのです。その人々は、何か特別に良いことをしたのではありません。自分の善行の報いとして招かれたのではありません。彼らは、神の招きに応答したのです。呼びかけに応えて、与えられた時、チャンスを無駄にせずに、神と共に歩むという狭い戸口から入り、み言葉によって生きる民となったのです。そのことによってこそ、神の国の宴会の席に着くことができるのです。この招きは全ての人々に与えられています。
私たちも、神の招きに応えて、イエスさまが開いてくださったこの戸口を通って、救いにあずかろうではありませんか。今この礼拝に集っている私たち一人一人に、そのための時が、チャンスが、神様によって与えられているのです。この戸口は確かに狭い戸口です。その先に続く道も、決して平坦なものではありません。この戸口さえ通ってしまえば全てが楽になるとか、何の問題も、悩みも苦しみもなくなる、などということもありません。私たちがかかえている罪だって、それによってなくなるわけではないのです。しかし、この戸口から入ることによって、相変わらず罪人であり、苦しみや悲しみを抱えている私たちの、その歩みの全体が、神の救いへの招きの中に置かれます。私たちのために十字架にかかって死んで、復活したイエスさまが共にいてくださる信仰の旅路を歩むことができるようになるのです。そこには、私たちが、救われる者は多いのか少ないのかという問いにおいて考えているような議論をはるかに超えた、本当に確かな救いの世界が開かれていくのです。
この信仰を与えられた者は、救いを生き続けるよう、恵みに生き続けるよう努めます。イエスさまの力に支えられながら、不義なる自分と戦います。それが先んじてイエスさまにお会いし、恵みに生かされた者としての責任、御国に対する人間の責任です。「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」というのは、この先に召されている私たちへの警告であり、また恵みに留まり、神と共に歩み続けるようにとの招きなのです。