Sola Gratia

昇天主日 説教

イエスさまの祈り

イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」

現在、世界中の多くの教会が、聖霊降臨祭(ペンテコステ)の前の日曜日(復活後第6主日)にはヨハネ17章(A年に1~11節、B年に12~19節、C年に20~26節)を読んでいます。しかし、わたしたちの教会のように、この日を昇天主日として守る習慣の教会は、この日に毎年ルカ24章の昇天の記事を読みますから、ヨハネ17章は読む機会がありません。それで、今年は主日名こそ「昇天主日」としましたが、敢えて、朗読する聖書個所は復活後第6主日の「イエスさまの祈り」を選びました。ルターはこの祈りを指して「その鳴る音は単純であるが、その深さと広さの豊かさは計り知れない」と言ったそうです。この祈りは3回に分けて読むのがふさわしい、内容の濃い個所です。

《イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」》。

「これらのことを話してから」とは、14章1の《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい》で始まり、16章33の《あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている》で終わる「別れの説教」を指しています。ヨハネ福音書17章は、最後の晩餐の席におけるイエスさまの「別れの説教」を締めくくる祈りです。ここでイエスさまは万民を贖うための犠牲としてご自分を献げようとして、その犠牲を聖別するために祈っています。それはまさに、大祭司が神と民の仲立ちとなって、神に犠牲の動物を献げることによって民の罪を赦していただこうと願った姿と重なります。それで、昔からこの「イエスさまの祈り」を「大祭司の祈り」と呼ぶことが広く受け入れられています。

きょうは教会の暦で「昇天主日」、つまり復活したイエスさまが天に上られたことを祝う日ですが、天に帰ったイエスさまは今どうしておられるのでしょうか。使徒信条によると、「全能の父である神の右に座し」ておられます。ルターと並び称される宗教改革者のジャン・カルヴァンは、この信仰箇条に関連して、昇天したイエスさまは神の隣りにいて、神に耳打ちするようにわたしたちの祈りを取り次いでくださっているのだと言います。聖書に《だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです》(ローマ8章34)とある通りです。イエスさまは、神と人との隔たりを取り持つ資格のある唯ひとりの大祭司なのです。

大祭司であるイエスさまは、弟子たちに聞こえるように天の父に祈りを献げます。弟子たちはその祈りの言葉を聞いて、イエスさまと一つになって祈ります。イエスさまの仲立ちによって弟子たちは天の父との交わりにあずかるのです。これが、大祭司による「執り成し」です。

祈りの最後に唱える「主イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン」という言葉は、わたしたちが祈ることができる根拠がイエスさまの救いのみわざにあることを言い表しています。わたしたちは本来、神に祈ることなどできるはずのない罪人でした。そんなわたしたちが神のみ前に大胆に近づき何でも祈ることができるのは、イエスさまが、わたしたちと神の間を隔てていた罪の壁を取り除き、わたしたちと神との和解を成し遂げてくださったからです。イエスさまがわたしたちと神とを結び付けてくださる唯一のお方です。つまり、わたしたちはイエスさまを通してのみ、神に近づき、祈ることができるのです。ですから、祈りの終わりに「主イエス・キリストによって」と言う時、自分のためにイエスさまが十字架で死んでくださったがゆえにこうして祈ることができるのだという感謝をも表しているのです。

《父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください》。

旧約聖書で神を「父」と呼ぶ例は多くありません。「父」は、イエスさまと神との深い霊的な交わりがこめられた呼び方であって、イエスさまの独特の言葉だと言ってもいいでしょう。この「父」への呼びかけが、弟子たちへも受け継がれていきました。

イエスさまは、苦しみを受けて天に帰られる時を「わたしの時」と呼んでこられました。イエスさまはこの時のためにこそ、世に人となられたのです。それは十字架の時ですから、ふつうに考えれば敗北の時、挫折の時ですが、これをわたしの栄光としてくださいと祈ります。イエスさまはご自分の命を代価として支払って、わたしたち一人ひとりの命を救おうとなさったのです。ヨハネ福音書では、十字架と復活こそがイエスさまの栄光を現される出来事であり、そこおいて、父なる神がどんなに大きな愛と信実の神であるかが現されます。「神の栄光を現す」とは、すなわちイエスさまを通して神がどのようなお方であるかが現されることです。

《あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです》。

イエスさまは、その受難と復活によって神から「すべての人を支配する権能を」与えられました。マタイ28章18にも《わたしは天と地の一切の権能を授かっている》とある通りです。イエスさまはその権能にもとづいて、「あなた(神)からゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えること」ができるのですし、その権能にもとづいて、「執り成し」を祈っておられるのです。

《永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです》。

「永遠の命」とは「救い」の言い換えであって、ヨハネ福音書では同じ意味に用いられています。ここで救いは神を「知る」ことにあると言われています。聖書の「知る」は、知的に知ることではなく、人格的に知り合うこと、交わることです。「知る」ことが「救われる」こと、「永遠の命」に導くのです。

しかし、イエスさまが「あなた」と呼びかける「唯一のまことの神」を知ることは、神から遣わされたイエス・キリストを知ることを通して初めて「知る」ことができるのです。ですから、一息に「神であるあなたとイエス・キリストを知ることです」と言うことになります。ここの「と」は二人を知ることではなくて、「すなわち」の意味であって、「唯一のまことの神であられるあなたを知ること、すなわち、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることが永遠の命です」という信仰告白です。14章6に《イエスは言われた。「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》とあったのと同じ主旨です。

《わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を》。

神はふつうは人の目には隠されていて知ることができませんが、イエスさまは地上における言葉と行いを通して、ご自分を遣わされた神を現して来られました。そこで今、十字架における苦しみの時、今度は父が父の側の働きとしてイエスさまに栄光を与えてくださいと祈っています。

《世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです》。

続いて、イエスさまは地上に残される弟子たちのために祈られます。この部分が「大祭司の祈り」の本体になります。弟子たちは、イエスさまが天に上ったあともイエスさまはこのように自分たちのために神に祈っていてくれるのだという信仰によって生きるのです。このことは、現在のわたしたちも同じです。

そのわたしたちは、イエスさまの言行を通して神の御名(本質)、つまり神がどのようなお方であるかを示されて、イエスさまに属するものとなったのです。それは決して自分の意志や力によるのではありません。神が世から選び出してイエスさまに与えたことによるのです。イエスさまは「別れの説教」の中でも《あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ》(15章16)と語っておられます。

ここで、イエスさまは「彼らは、御言葉を守りました」と、わたしたちが神の言葉を注意深く保持していると言ってくださっています。そうあらねばならないのですが、いかに不忠実な歩みであるかはわたしたち自身が承知しています。イエスさまの慈悲深い執り成しに感謝します。

《彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです》。

イエスさまは、ご自分のものであるイスラエルの民から拒まれましたが、父である神が与えた民(イエスさまを信じる者たち)だけは御子の栄光を賛美しています。世に残るイエスさまの民が神の子として歩みをまっとうできる拠り所は、イエスさまの中に現された神の御名(神の恵みと信実)だけです。

「彼らが一つとなるために」という祈りは、神とイエスさまが愛によって固く結ばれているように、わたしたちもまた神(とイエスさま)と深い交わりをもって愛と信頼のうちに歩むことができるように、また人間同士も互いに愛し合い助け合って生きていけるようにと、イエスさまはわたしたちのために祈っていてくださるのです。神に感謝、キリストに賛美。