聖霊降臨後第5主日 説教
神の訪れ
- 2013年6月23日(日)
- 聖霊降臨後第5主日
- ルカ7章11~17
それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。
先週は、イエスさまの権威と力に対する百人隊長の深い信仰と、百人隊長の僕(奴隷)が死の病いをいやされた物語でした。きょうはその物語に続く個所で、死んでしまった若者を復活させて、その母親の深い悲しみをイエスさまが大きな憐れみを示された物語です。
《それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。》
前の話はガリラヤ湖北西岸のカファルナウムでの出来事でした。ナインはカファルナウムから歩いて八~九時間もかかるガリラヤ地方南部の町です。
《イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。》
イエスさまの一行が町の門を入ろうとすると、逆に、町の中から死人を外に運び出そうとする行列に出会いました。当時、死者を葬る墓地は人の住む町中ではなく、町の門の外にあったそうです。この死者は、あとでイエスさまに「若者よ」と呼びかけられていますから、まだ若かったのでしょう。しかも、その母親は夫に先立たれたやもめ(未亡人)でした。そのうえ、一人息子が若くして亡くなったのです。女性は愛する者を二人とも失い、前途の希望を断たれて、断腸の涙を流していたことでしょう。「もう泣かなくともよい」というイエスさまの言葉で、この母親がどれほど泣いていたか、悲嘆の大きさが想像できます。彼女を慰めようと大勢の人たちが付き添っていました。この状況で、人にできることは、悲しみに寄り添うことだけです。しかも、そのことでさえ、私たちはなかなかできないものです。
旧約聖書の昔から、「隣人を愛しなさい」と言われてきました。そして、愛される必要がある隣人は、やもめ・みなしご・寄留の他国人という三人で代表されてきました。男性中心の社会でやもめもみなしごも家の中心となる夫や父がいない人たちです。また、寄留の他国人は、この土地に基盤を持っていません。これらの社会的に弱い立場におかれた人たちを軽んじないで、むしろ隣人として親切にすることが旧約聖書以来の倫理でした。
《主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。》
ふつう「主」という称号は、復活後のイエスさまに使われるのですが、ここでは珍しく生前のイエスさまを指すのに「主」という言葉が用いられています。旧約聖書では「主」は、天の父なる神を意味する言葉ですが、新約聖書では、この言葉がイエスさまに使われ、イエスさまが神の子、つまり地上を歩む神ご自身であるという信仰を言い表す称号となりました。著者ルカは、これから起こる出来事は、「主」としか言いようがないお方が引き起こす大事な出来事ですよと強調しているのでしょう。
私たちは、先週の百人隊長のしもべの癒しという出来事を通して、イエスさまの言葉の権威と力を知らされました。その権威と力が発揮されたのは、百人隊長にイエスさまの言葉に対する絶大な信頼があったからです。しかし、今日の個所では、やもめが死人を生き返らせて欲しいと願ってもいないし、イエスさまを「主」と信じる告白をしてもいないのに、死人が生き返るというとてつもないことが起こります。それは、他でもない「主」が、一人息子に死なれてしまった母親を「見る」ことに始まるのです。
イエスさまはこの母親を見て、「憐れに思い」ました。この言葉は、原語で「腸(はらわた)」を動詞化した言葉で、「腸が動く」ほどに、痛切に相手の痛みを自分のものとして相手を憐れむという、福音書にだけ出てくる珍しい言葉です。英語ではコンパッション compassion と訳されます。この英語はもともとはラテン語で「共に苦しむ」という意味です。イエスさまは《群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ》(マタイ9章36)たのでした。「深い憐れみ」とは、はらわたがよじれるほどの深い痛み苦しみをもって、イエスさまが人々の痛みや悲しみ、苦しみをご自分のものとして引き受けてくださったということです。十字架とはそのようなイエスさまの愛を他のどこよりもはっきりと示しています。著者ルカは、愛するとは、深い憐れみをもって苦しむ人に近づいてゆくことであり、その傍らにあって共に苦しむことであり、自分の持っているものを差し出してゆくことだと言おうとしているようです。
《そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。》
イエスさまは近づくと、葬送の行列を押し戻すかのように棺に触れたのでしょう。そして死者に「起きなさい」と命じます。「起きる」は、眠っていた人が目覚めて起き上がるという意味ですが、ここでは死者が復活することに用いられています。
「見る」、「憐れに思う」、「近づく」という三つの動詞の組み合わせに注目しましょう。「善いサマリア人のたとえ」でも《ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した》(ルカ10章33~34)と、この三つ組が出てきます。「放蕩息子のたとえ」でも《そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した》(ルカ15章20)と出てきます。
《すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。》
イエスさまの命令の通りに、死んだ若者は復活しました。イエスさまの、はらわたのよじれるような憐れみは、死んだ者を死の支配から解放し、絶望して泣いている者を泣き止ませる力を持った憐れみ、同情なのです。
《人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。》
人は、神の臨在を肌で感じる時に恐れに捕われます。そして、その神への恐れこそが賛美を生み出すのです。
きょうの出来事は、偉大な預言者エリヤの物語とよく似ています。エリヤは、サレプタという町のやもめの一人息子が死んでしまったとき、神に祈り、神はその子を生き返らせてくださいました。そのとき、母親はエリヤに言います。《今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です》(列王記上17章24)。エリヤはやもめの死んだ息子を復活させるという奇跡を行った預言者なのです。人々がイエスさまについて「大預言者が現れた」と言っているのは、この故事を思い出したからでしょう。
「神はその民を心にかけてくださった」は文字どおりには「神はその民を訪れた」です。神が救い主を遣わしてくださるということです。ザカリアの賛歌に《ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた》(ルカ1章68~69)とありましたが、いま人々は同じ言葉で神を賛美しています。つまり、ここで起こっていることは、ザカリアの預言の実現なのです。《これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」》(同78~79)。主ご自身がナインのやもめを「訪れ」、「死の陰に座している者たち」に命の光を照らしてくださったのです。それは、主の「憐れみ」によることです。
きょうに続く個所で、ヘロデに捕らえられていた洗礼者ヨハネが、イエスさまのもとに使いを遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねます。イエスさまは、《それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」》(ルカ7種22~23)。きょうの出来事は、まさに神の国が始まっていることのしるしなのです。
このように見てくると、ここに語られているのは、イエスさまが死んだ人を生き返らせるという驚くべき奇跡を行なった、というだけのことではないことが分かります。このみ業には、神がご自分の民を訪れ、救いを与えてくださるという恵みのみ心が示されているのです。そのみ心とは、死の力に支配され、希望を失って泣いている私たち人間を深く憐れみ、救ってくださる、人間一人ひとりに対する神の信実なみ心です。
神はその独り子イエスさま十字架の死と復活によって、私たちを死の支配から解放し、神の恵みのご支配の下で新しい命を与えてくださいます。神が深い憐れみによって救い主イエスさまを遣わしてくださり、このイエスさまにおいて罪と死の力を打ち破り、新しい命へと私たちを招いてくださっているのです。私たちも今日、イエスさまによって始まったこの新しい時代に生きるよう招かれているのです。