Sola Gratia

聖霊降臨後第4主日 説教

ある百人隊長の信仰

イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

《イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。》

前の章には、「平地の説教」と呼ばれる、イエスさまがお語りになった説教が記されていました。7章からは再びイエスさまの活動を語る部分になります。町の外で多くの人々に話していたのが終わったので、町に戻ったということでしょう。カファルナウムは、ガリラヤ湖の北西岸にある大きな町で、収税所があり、徴税人として働いてたマタイが弟子として召されました。シモン・ペトロとアンデレの家もあり、イエスさまのガリラヤにおける活動の拠点となっていた町でした。

《ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。》

百人隊長とは、文字通り百人の兵卒たちを率いる隊長で、百人隊長は軍団において重要な役割をもつ将校です。戦闘の指揮だけでなく、非戦闘時における軍団兵の訓練も指導するなど、軍団の規律の要でした。

当時、ガリラヤ地方はヘロデが領主として支配していました。このヘロデは、ヘロデ・アンティパスという人で、クリスマスの物語に出てくるヘロデ大王の息子です。カファルナウムの百人隊長はこのヘロデの部下ということになります。

ここでは、百人隊長の「部下」と訳されている言葉は、7節では「僕」と訳されていますが、奴隷のことです。百人隊長はこの奴隷を頼りにしていたのです。

《イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。》

4章にカファルナウムで起こった出来事が記されています。イエスさまが安息日に会堂で説教された時、人々はその語る言葉の「権威」に「非常に驚いた」とあります。また、その時、会堂には汚れた霊に取りつかれた人がいましたが、その霊に向かって《イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。》(ルカ4章35~37)。

百人隊長はその場に居合わせなかったかも知れませんが、イエスさまのうわさは十分に届いていたことでしょう。

ユダヤ人の長老たちとは、この町の指導的な立場にある有力者たちです。神の民であるという誇りをもつ長老たちが、異邦人である百人隊長の使いとしてイエスさまのもとに来るのは異例のことです。

《長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」》

百人隊長がイエスさまに直接に会いに来ないのは、彼が異邦人であって、ユダヤ人であるイエスさまを汚さないように気を遣ったのでしょう。長老たちは彼が会堂建設に多額の献金をしたことに言及して、イエスさまに執り成しています。

この百人隊長はおそらく「God-fearer神を畏れる人(神を敬う人)」です。この言葉はふつうに神を信じる人という意味にも使われますが、特別の意味をもった術語としても使われます。つまり、異邦人であるままでユダヤ教信仰に帰依し、律法の規定、会堂での礼拝や日々の祈りを重んじている人々を指す言葉です。異邦人でも割礼を受けて正真正銘のユダヤ教徒になった人々は「改宗者」と呼ばれますが、改宗者とならずとも、ユダヤ教に親近感を覚えてその教えを守る人々のことを「神を畏れる人」と呼んでいるのです。たとえば、使徒言行録でこう使われています。《そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください》(13章16)。《兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。》(13章26)。

使徒言行録10章に出てくる百人隊長のコルネリオ、16章の紫布商人ルディアや18章のティティオ・ユストもそういう人でした。

《そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」》

そこで、イエスさまは百人隊長の家に向かいますが、その途上で、ふたたび彼の使いが来て、ご足労には及びませんと伝えます。頼みごとがあるなら人伝てでなく本人が直接に頼むべきですし、あとになって断るなら、なおさら本人が出て来て詫びるべきところです。ところが、百人隊長としては、改宗者になりきれない中途半端な者がイエスさまに願い出るとか迎え入れるとかは控えるべきと考えたのです。結局、彼は一度もイエスさまに直接会ってはいません。そもそも、会う会わない前に、いくら僕のためとは言え、彼は自分にはイエスさまに願いごとをする資格がないと考えているのです。しかし、死にそうな僕を何としてもイエスさまに助けて欲しい。そこで、見出した窮余の策が「ひと言おっしゃってください」という願いでした。

イエスさまのお言葉の権威と力に彼は寄り頼みます。その信頼は、彼の生活経験から学んだものでした。百人隊長は、上官の下にいる者であると同時に、百人の歩兵の命を預かる者でもあります。その権威と責任の重みを知る者として、イエスさまの権威ある言葉は僕を癒やすことができると信じるのです。

彼はイエスさまのことはまた聞きで知るだけでした。でも、それでイエスさまを信じました。私たちもイエスさまに会ったことはありませんが、信徒の証しをとおして、聖書を通して、また聞きでイエスさまを知り、信じた者です。この百人隊長は、私たちの代表者です。

《イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」》

イスラエルの指導者たちはイエスさまを受け入れず、イエスさまと対立していましたが、群衆はイエスさまを支持し、イエスさまに期待していました。しかし、その期待はイエスさまの目指すこととは違っていて、次第にその期待は満たされないことが明らかになって、群衆はイエスさまから離れていきました。この出来事の段階では、まだ群衆はイエスさまに期待し、従ってきているのですが、イエスさまはことの成り行きを見通しておられたのでしょうか。この百人隊長の信仰を、イスラエルの指導者や群衆の信仰にまさるものとして絶賛します。

イエスさまに「これほどの信仰」と褒められた理由は、二つあると思います。第一点、この百人隊長は自分がイエスさまと会って願う資格がない者であることを自覚していることです。カファルナウムの長老たちは、この人が善意の人であり、会堂建築に多額の献金をしたことを上げて、この人の願いが聞かれるにふさわしい人だと言います。私たちはこの言葉を聞いて、安心するのではないでしょうか。私たちもまた、あの人もこの人もそして私も良い人で、イエスさまに願いを聞いていただくにふさわしい人と思いたいからです。しかし、百人隊長は自分がそうしていただくにふさわしい者ではないと自覚しています。本当の信仰は、自分が本来救いにふさわしい者ではないという自覚のもとにこそ生まれるのです。私たちは、毎週、礼拝を始めるに当たって、自分たちの罪を懺悔し、神の憐れみを願い求めますが、そのように、私たちはイエスさまのあがないと執り成しなしには、神のみ前に出るにふさわしい者ではないことを認めるのです。

「これほどの信仰」と褒められた第二点、この人は、「ひと言おっしゃってください」と、イエスさまのみ言葉の権威と力を信じて、それに寄り頼んでいます。自分自身はふさわしくない者ですが、イエスさまのみ言葉、つまりイエスさまのみ心を介して、神さまのみ前に出て、願いごとを申し上げることができるし、人のために執り成すこともできるというのが、この人の信仰です。

《使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。》

百人隊長の伝言をもってイエスさまにお会いした友達が戻ってみると、僕がいやされており、百人隊長のイエスさまへの信頼が空しいものではないことが確認されました。しかし、この物語の中心は百人隊長の僕が病から回復したことよりも、異邦人である百人隊長の「信仰」にあったことは明らかです。

この百人隊長は、一度もイエスさまにお目にかかったことはなく、ただ人々の証しを聞いて、イエスさまを救い主と信じました。彼は顧みてもらう資格がない者であることを自覚しながら、イエスさまのよって示された神は一方的な恵みと慈しみをもって人を助けてくださるお方であることに寄り頼みました。

私たちもまた異邦人であり、直接目で見る形でイエスさまに会ったことはありません。信じる人の証しを通して、また聖書のみ言葉を通して、救い主としての、執りし手としてのイエスさまの愛と力を知り、信じ、イエスさまのみ名を通して神のみ前に生きようとする者です。イエスさまに対する信頼が、み言葉に対する信頼が、私たちにおいてもますます確かなものとなりますように、神の助けを祈りましょう。