Sola Gratia

顕現節第7主日 説教

敵を愛せよ

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

きょうの福音は、山上の説教の中から反対命題集の最後の二つ、つまり5番目の「復讐してはならない」と6番目の「敵を愛しなさい」ですが、これらは別個の二つの命題と考えるよりも、一つのことを二つに細分したものと理解したほうが良さそうです。38~42節は敵を愛する行為の消極面を述べて、「悪に対して悪をもって対抗するな」と、そして43~48節は敵を愛する行為の積極面を述べて、「悪に対して善をもって報いよ」と勧めていると見られます。

「敵を愛しなさい」というイエスさまの言葉は、弟子たちによほど強い印象を与えるものだったようで、マタイのこの個所と同じことを記しているルカ福音書の「平地の説教」は、これを27節の「敵を愛しなさい」で始めて35節の「敵を愛しなさい」で結ぶ一つの段落にまとめています(ルカ6章27~35参照)。この勧めこそが、イエスさまの教えの頂点だと言ってよいでしょう。

《あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。》

「目には目を、歯には歯を」は、同害報復法と呼ばれる古代の刑罰で、レビ記24章19~20にこう記されています。《人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。》報復が過剰になり勝ちで、止め処ない連鎖になる傾向があるので、片目の傷の報復は片目の傷で返すにとどめよという法です。報復を全面的に禁じているのではなく、報復が無秩序になるのを抑えようとするものです。しかし、イエスさまは悪に対して悪で応えることを全面的に禁じています。

《だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。》無抵抗を説くことから次第に良い物を与えることへと高まり、最後の教えに到達します。 《あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。》

「隣人を愛し、敵を憎め」は、そのままの言葉では聖書に出てきません。「隣人を愛せよ」については、きょうの第一朗読に出てきました。《復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい》(レビ記19章18)。ここで隣人とは同胞の親しい人だけでなく、異邦人も、自分に悪を行なう人も含むと読めます。しかし、ファリサイ派の人々は、律法への熱心のために、異教徒の支配者や、同胞でも律法と無縁に暮らす罪人たちを敵として憎むことは当然視していました。それで、ファリサイ派の人々の義を、こことでは「隣人を愛し、敵を憎め」と要約しています。これに対して、イエスさまは「敵を愛せよ」と言うのです。愛すべき隣人と憎むべき敵とを区別しないで、敵をも隣人の中に入れてしまわれたのです。悪に対して悪で応えないだけでなく、かえって善でもって報いなさい、と言うのです。これこそが愛の最高の表現であると思います。しかし、人の本性としてそれは不可能ではないでしょうか。どこからそういう思いが出てきたのでしょうか。それを語るのが続きのこの言葉です。

《あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。》

このイエスさまの言葉もたいへんに印象的で、記憶に残る言葉です。これは、神さまが律法を守れると守れないとに関係なくすべての人に、ただ恵みによって救いを与えてくださることを言っているのです。人は自分の律法の業を行う義によらず、人に対する神の信実、無条件で与えてくださる恵みによって救われるのです。わたしたちはすでに無条件の恵みの場に入れられています。イエスさまは神の無条件の恵みに生きていたからこそ、晴れだったり雨だったりする日々の現象に天の父の愛を見ることができたのでしょう。天の父がそのようなおかたであり、わたしたちは天の父の子としてその恵みの中に生かされているのであるから、敵をも隣人として愛することが求められるのです。

《自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。》

こうあるように、わたしたちは自分を愛してくれる人を愛し、自分を憎む人を憎みます。そのような生き方であれば、ファイサイ派の人々の義にも及ばず、徴税人や異邦人と同じです。《言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない》(マタイ5章20)。それゆえ、イエスさまの弟子には、こう求められます。《あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい》(ルカ6章36)。

ところが、これは、それを聴く人間にとってほんとうに不可能なことを求めているように感じる言葉です。確かに、敵を愛するというのは素晴らしい教えです。けれども、人間の本性から見てそれは実現不可能だとして、通過してしまうのが実状ではないかと思います。それは、この言葉の後半の部分、「あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という要求の言葉だけを受け取って、その前半を受け損なっているからなのです。「父が憐れみ深いように」とイエスさまは言っておられますが、この「父が憐れみ深い」という事実を自分のこととして受け損なっているから、後半の「そのようにあなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という神の要求が受け取れないのです。わたしたちは父の憐れみを受けて初めて、その父の憐れみをもってお互いに憐れみ深い者として交わりを造っていくことができるのです。そうして初めて、このイエスさまの言葉は現実のものとなっていきます。イエスさまは、それまで聖書全体の中で語られてきた神の求めを明らかにされただけではなく、それを実現する命と力ももたらしてくださったのです。

わたしたちが現実に神の憐れみの場に生きることができるためには、神への背きという罪の根が取り除かれなければなりません。そのために神の贖いのわざが必要でした。イエスさまが十字架について死なれたときに、わたしたちの神への背きという根源的な罪が贖われたのです。わたしたちは、イエスさまの十字架によって「あなたの罪は赦されている」とのみ言葉を聞いたのです。このように神の求めに達することのできない、律法を全うすることができない、自分ではどうしようもない罪人に過ぎないわたしたちに、神は十字架のゆえに赦しの愛を注いでくださいます。この神の愛を受けたときに初めて、イエスさまが言われた、「父が憐れみ深いように」ということがわたしたちの内に事実になったのです。それによって初めてわたしたちは、今まで知らなかった赦しの愛という場で人間関係を形成していくことができるようになるのです。

終わりに、繰り返しになりますが、きょうの説教をまとめてみましょう。

きょうのイエスさまのお言葉、「敵を愛せよ」をわたしたちを外から規制する律法や道徳と理解すると問題が生じます。敵を愛することは、人間の本性からして不可能ではないかということです。わたしたちは神の信実の愛を知り、「敵を愛せよ」という絶対の愛に生きようと思っても、いつも「隣人を愛し、敵を憎め」の水準に戻ってしまうことを経験します。このイエスさまの勧めを人間の倫理の努力目標と受け取ると出口が見つかりません。むしろ、敵を愛する愛は、イエスさまがそこに生きた神の国の福音、絶対無条件の恵みの証しとして聞くべきです。まずは、《あなたがたの父が憐れみ深いように》を自分にとっての現実としてしっかり受けとめることです。それが一番大事なことです。そしてその次に、《あなたがたも憐れみ深い者となりなさい》、《あなたたちの敵を愛しなさい》を、イエスさまの招きとして聞くのです。実行できるかどうか心配する必要はありません。ただ神の無条件の恵みに感謝して身を委ねて、神に導かれた生活を心がければよいのです。わたしの身において、いつどのように敵を愛することが実現するか、それはわたしの内に働く神さまの導きに任せるのです。神はわたしに必要な時と場合に応じて、力と知恵を与えてくださいます。自分の信仰とか誠実さを当てにするのでなく、ただ神が信実なお方であることだけを当てにして、その恵みを現在の歩みの中にしっかり身に付けていけばよいのです。