顕現節第6主日 説教
敵する者へのイエスの言葉
- 2014年2月9日(日)
- 顕現節第6主日
- マタイ5章21~37
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
今週と来週の二回に分けて、山上の説教のうち「反対命題、アンチテーゼ」と呼ばれる部分を学びます。新共同訳聖書の小見出しで言いますと、「腹を立ててはならない」、「姦淫してはならない」、「離縁してはならない」、「誓ってはならない」、「復讐してはならない」、「敵を愛しなさい」、という六つの段落です。これらは皆、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は・・・と命じられている」と、まずファリサイ派に代表されるユダヤ教の倫理、義が述べられ、それに対して「しかし、わたしは言っておく。・・・」と、イエスさまが弟子たちに求める新しい義が示されています。この形式のゆえに反対命題と呼ばれるのですが、今週は初めの四つの命題が、来週は残りの二つの命題が配分されています。
これら六つの戒めを貫く中心テーマは、律法の正しい理解とその実践です。このことは、反対命題の終わりにあるこの言葉が示しています。《だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい》(5章48)。この言葉は、ルカ福音書では、《あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい》(ルカ6章36)と換えられており、「完全な者」とは「憐れみ深い者」を意味することが分かります。また、こうした戒めの理解の根拠について、マタイはこう記しています。《あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである》(5章45)。このように、すべての戒めは「あなたがたの父が憐れみ深い」ということが根拠になっています。すべての戒めをここから理解することが肝要です。
わたしは今日の説教題を「敵する者へのイエスの言葉」としましたが、山上の説教を書くとき、著者マタイは、二つの勢力と戦っていたことを知ることも、この個所を理解する助けになると思います。一つの勢力はユダヤ教です。マタイが書いていた当時、ファリサイ派と律法学者たちが指導権をとるユダヤ教は、キリスト教徒を迫害していました。もう一つの反対勢力は、キリスト教の内部にありました。それは、イエスさまの恵みに甘えて、律法を守ることを軽視してキリスト教を歪める一派です。
もう少し、この二つの敵について説明を加えましょう。まず、外の敵、ユダヤ教についてです。イエスさまの在世当時は神殿を中心としたサドカイ派が指導権を握っていましたが、イエスさまの十字架処刑のあと40年近く経って、ユダヤ人はローマ帝国の支配を追い払おうと反乱を起こしました。これは西暦66年~70年のことで、ユダヤ戦争と呼ばれます。激しい戦いの末、ローマ軍はついにエルサレム神殿を攻略し、反乱を鎮圧しました。その結果、犠牲の祭儀ができなくなった祭司階級のサドカイ派は消滅し、敗戦後のユダヤ教の再建は、町々村々の会堂を拠点にしていたファリサイ派の主導のもとに行われました。ユダヤ戦争の後、ユダヤ教は神殿祭儀中心から律法遵守中心へと変わって行ったのです。また、ユダヤ教内のイエス派は、ユダヤ会堂から破門され、ユダヤ教の外でキリスト教徒として生きることになったのです。マタイが福音書を書いたのは、こういう時代であり、ユダヤ教とキリスト教のどちらが神の律法に忠実かということが争点でした。《言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない》(5章20)。この言葉はその事情を示しています。反対命題は、律法学者の義とマタイのいう義との違いを示しているのです。
マタイの見るところ、キリスト教の内部にも敵がいました。山上の説教を締めくくる部分に、その敵についてこう記しています。《わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』》(7章21~23)。イエスさまを信じて霊の賜物をいただいて大きな力を発揮にもかかわらず、律法を軽んじる仲間がいました。マタイは彼らに対しても反対命題で、律法の真の精神を解き明かし、律法を守るべきことを説いているのです。マタイはイエスさまの言葉をこう伝えています。《わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない》(5章17~18)。
また、マタイは福音書の最後にイエスさまの宣教命令を伝えています。《イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」》(28章18~20)。ここでは、異邦人の信徒が守るべき律法という意味でも語っているのです。
前置きが長々と続きましたが、もともと一回の説教で四つの反対命題を一つひとつ扱うことはできません。いきおい、戒めを読むときに共通の基礎となる事柄を中心に語ることになります。では最後に、最初の反対命題「腹を立ててはならない」を読むことによって、今まで述べて来たことがどのように適用されているか見てみましょう。
《あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。》
ここで「兄弟」とは広い意味で「隣人」と理解して良いでしょう。「腹を立てる」は「怒り」の動詞形です。イエスさまは、実際に殺さなくても心の内で怒るとき、刑法では裁かれなくても神の裁きを受ける、と言います。怒りや憎しみは、相手の価値や存在を否定する心の表れです。自分自身、功績も価値もなく、ただ神の無条件の恵みによって生きるほかない者が、同じ神の恵みのもとに生きている隣人に怒りを燃やすなら、それは隣人を裁くことになります。マタイ18章21~35の「仲間を赦さない家来のたとえ」が語っているように、それは自分を神の恵みの場から追い出すことになります。これは、倫理の内面化ということではなく、絶対無条件の恵みによって可能となった神との交わりの告知なのです。
《だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。》
兄弟とよい関係を維持するために、今度は、自分が腹を立てている場合ではなく、相手が自分に「反感を持っている」場合の話です。まず仲直りする努力をしなさいと言います。無条件で神に受け入れていただいているのだから、相手を無条件に受け入れることを求められます。主の祈りが「私たちに罪を犯した者を赦しましたから、私たちの犯した罪をお赦しください」と祈るよう教えているとおり、祈りも神の恵みの場において成り立つのです。
《あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。》
訴える者と和解しなさい。もし和解しないまま神の裁きの座に出るならば、先にも引いた18章のたとえが示すように、誰も負債を払い切れる人はいないのですから、永遠の滅びに定められてしまいます。「最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」は、フランシスコ会訳では「最後の一円を払うまで」と訳されていて分かり易いです。クァドランスは少額のローマの青銅貨です。これは神の裁きの厳しさを表わしています。ですから、イエスさまは、「途中で」つまり今のうちに、神と和解しなさい、隣人とも和解しなさいと勧めるのです。
「殺すな」の段落は、以上のように、三つの文節を持って、神の無条件の恵みの場における和解によって敵意そのものを滅ぼし、そうすることで「殺すな」という律法の下に成り立つ義よりもはるかに勝る義を提示しているわけです。これを聞くと、私たちはそれは出来ない、と自分の弱さに戻ってしまいますが、そういう人の弱さを神さまもイエスさまもよくご存じです。イエスさまは自分の命を代価として支払って、私たちのために神との和解を成し遂げてくださいました。私たちはこの神の無条件の恵み、人間に対する信実の心に身を任せるしか生きる道はありません。私たちはそこでしか生きられないのですから、私たちに和解が出来ようが出来なかろうが、神の恵みの場にとどまり、神の深い憐れみに押し出されて私たちもまた、少しでも隣人に憐れみ深く生きようとするほか生きようがないのです。