三位一体主日 説教
三位一体の神
- 2013年5月26日(日)
- 三位一体主日
- ヨハネ16章12~15
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
毎年、聖霊降臨の主日の次の日曜日に「三位一体」の主日が祝われます。「三位一体」(ラテン語でTrinitas)という語は教父のテルトゥリアヌス(160年頃~220年頃)による造語で、ヨハネ福音書にある、神である父が神であることば(=子)を遣わし、見えざる父を子が顕わし、子は天の父のもとへ帰るが、父のもとから子の名によって「弁護者」なる聖霊を遣わすという構図(ヨハネ1章1,14;14章12,16~17,26)にもとづくと言われます。ただし、この主日は「三位一体」という教えを学ぶ日というよりも、むしろイエスさまの生涯(受難、死、復活、昇天)と聖霊降臨をとおして示された神の大きな救いのわざを振り返り、その神と私たちのつながりを深く味わう日と受けとめるべきでしょう。
きょうの福音は、ヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスさまの説教の一部であり、先週に続く箇所です。先週は、いろいろある聖霊の働きのうちの三つの働き・務めについて書かれていました。すなわち、聖霊は、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにするということでした。《その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである》(ヨハネ16章8~11)。きょうの箇所では、聖霊が世の誤りを明らかにするのは、いつ、どこで、どのようにかが明かされます。
《言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。》
イエスさまがその言葉と行いで弟子たちに伝えたいこととは、言うまでもなく、人に対する神の信実です。それは、弟子たちの経験や理解を超えた事柄であって、聖霊降臨前の「今」は理解できません。それは、ある意味で、現代の私たちにとっても同じことです。私たちはある時点で、信仰を得て洗礼を受けましたが、それは決して信仰の学びの卒業式ではなく、入門式でした。私たちは生涯、求道者、聖書を学び続ける者となったのです。
《しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。》
イエスさまの地上における活動が終わっても、イエスさまと弟子たちの絆が終わったわけではありません。イエスさまは地上を去るに当たって、こう約束してくださっていました。《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである》(ヨハネ14章16~17)。地上に残された弟子たちの集いに、天に上げられたイエスさまが送ってくださる聖霊の導きによって、弟子たち一人ひとりはいつどこにいてもイエスさまと交わりがもてるようになりました。つまり、聖霊の降臨によって、新たに教会の時代が始まったのです。
聖霊は、弁護者とも呼ばれますが、真理の霊とも呼ばれます。なぜなら、私たちは神の真理を理解することはできませんが、聖霊が私たちの心の内に働いて、私たちを導き、真理を悟らせてくださるからです。聖霊は私たちの心の内に働いて、神の信実を告げて悟らせるのです。
ヨハネ福音書における「真理」とは、イエスさまを通してご自分を人に示しておられる神のことです。《イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》(ヨハネ14章6)とあるとおり、イエスさまは一番手の弁護者です。そして、《ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです》(Ⅰコリント12章3)とあるとおり、聖霊は二番手の弁護者なのです。
《その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」》
神はイエスさまをこの世に遣わされました。そして、十字架の出来事ののち、今度は聖霊を遣わされることによって、神の信実を私たちに理解できる形で知らせるのです。聖霊の働きについて、イエスさまはこうも言っていました。《わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる》(ヨハネ14章25~26)。弟子たちは生前のイエスさまからいろいろ教えを受けていましたが、あまり理解できませんでした。しかし、分からないままに心に留めておいたことが、あとになって聖霊の助けを受けて、ああ、かつてイエスさまがおっしゃっておられたことは、こういうことだったのかと悟ったのです。そのことは今日の私たちにもあてはまることです。聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に、なかなか分かったとは言えない奥深いものでもあります。信仰は、私が信じるということではありますが、また、私の内に神が働く余地を残しておくことと言った方が良いかもしれません。
「その方」すなわち、聖霊は、父から子に託されたことを受けて語るのです。自分から語るのではありません。聖霊は父なる神からイエスさまに託されたことをすべて受け、またその言葉を聞いて、それをそのまま語るのです。このように、父と子と聖霊が一つの交わりの中に生きていることを「三位一体」という言葉は表しています。父の心は子に託され、子の心は聖霊に託されて人間に伝えられます。私たち人間は、その聖霊を通して、初めて子を知り、子を知ることを通して父を知ります。神を知り、その愛を知ります。その時、人は人として生きる命を得るのです。
三位一体の教えは、イエスさまの弟子たちの救いの体験をもとにして、「唯一の神が父と子と聖霊である」という表現にまとめられるまでに発展したものです。本日の特別序詞は、神が唯一であるとともに、父と子と聖霊という三つの位格をもつことを簡潔に謳っています。この讃美の言葉を味わいましょう。