Sola Gratia

聖霊降臨後第2主日 説教

敵を愛しなさい

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

聖霊降臨祭で50日間の復活節が終わると、聖霊降臨後の季節が始まります。先週は聖霊降臨後第一主日でしたが、その日は昔から「三位一体」の主日として祝われます。そしてきょうの第二主日からはほぼ半年間(11月24日の聖霊降臨後最終主日まで)、イエスさまの生涯の特別な祝いのない季節になります。この季節の典礼色は「緑」です。今年はルカ福音書を順番に読み継ぎつつ、教会の、そしてキリスト信徒個人の成長を図ります。

ところで、「緑」の季節は聖霊降臨後だけではなくて、もうひとつ顕現節にあります。今年は1月20日の顕現節第三主日から第五主日までが「緑」の季節でした。そして2月3日の顕現節第五主日にはルカ6章17~26を読んでいますので、きょうの福音はその続きで、ルカ6章27~36となったわけです。

《しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。》

これは、この段落の場面設定です。前の段落はいわゆる「平地の説教」(マタイ福音の「山上の説教」に相当する)の始まりでして、《さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。》(ルカ6章20)と、それは弟子たちだけを対象にして話していました。きょうの段落は「わたしの言葉を聞いているあなたがた」つまり、イエスさまの話を聞きに集まった群衆を聞き手とする話が始まります。

きょうの福音は、内容的に27b~31節と32~36節に二分することができます。

《敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。》

冒頭の命令文「敵を愛しなさい」がこの段落のテーマです。これに三つの命令文が続いていて、テーマを展開します。「あなたの敵」とは、どういう人でしょうか。「あなたがたを憎む者」、「あなたがたに悪口を言う者」、「あなたがたを侮辱する者」です。その者たちを「愛せよ」とは、何をしたら良いのでしょうか。「親切にする」、「祝福を祈る」、「彼らのために [執り成しを] 祈る」ことです。敵といっても、戦争の敵国人とか、教会を迫害する者とかだけでなく、もっと広く、ふつうの日常的な人間関係のなかで生じる軋轢をも念頭に置いていることが分かります。

《あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。》

次に、愛敵の実例が三つ語られています。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」。これは、悪に対して悪で報いるなということで、パウロも同じように、《だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい》(ローマ12章17)、また《悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい》(ローマ12章21)と言っています。

二番目の実例は、「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」です。これは、強盗に襲われた場面を想定しているようです。マタイ福音書では《あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい》(5章40)と、上着と下着の順序が逆です。「あなたを訴えて」とあるように、裁判の場面を想定しているようです。「下着」とは、普通の日常生活で身に着ける一枚の布でできた服のことです。「上着」とは旅をしたり、野宿をしたりするときに使う外套のようなもので、上着は下着よりも高価なものでした。

三番目の実例は、「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」です。これも強盗に遭った場合と考えられます。これら三つの実例で言いたいことの要約が「求める者には、だれにでも与えなさい」です。「だれにでも」とあるように、これは強盗に遭ったときのことに限られません。日常生活の倫理として、「与える」ということを強調しているようです。

《人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。》

これは、27b~30節の要約として、ここに置かれていますが、一般的な倫理規範を示すものであり、黄金律と呼ばれます。キリスト教以外にも似た教えがあります。孔子の言葉「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(論語第15編24)がすぐに思い出されますし、ユダヤ教でも、旧約聖書の続編に、《自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない》(トビト4章15)とあります。黄金律は、人類の知恵と言っても良いでしょう。

残念なことに、これらは人間が持つ心理の一つ、互恵の原則、つまり「人から何か良いことをしてもらったら、何か同等のお返しをしなければ」と考えることだと間違って理解されています。しかし、黄金律は互恵ということを言っているのではありません。「人にしてもらいたいと思うこと」は、「人にしてもらったこと」ではなく、「人にしてもらっていないこと」です。人からしてもらっていないにもかかわらず、してもらいたいと思うことを「人にしなさい」と言っているのですから、これは互恵という考え方とは違います。「ギブ・アンド・テイク」の愛、見返りを求める愛を越えよと言っておられます。黄金律は、相手の出方を基準として振る舞うのではなく、イエスさまの教えを自分の振舞い方の基準として、相手の出方によって自分の振舞い方をぶれさせないことを意図しているのです。

イエスさまは重要な掟について尋ねられて、《隣人を自分のように愛しなさい》とレビ記18章18を引用して答えました(ルカ10章27)。「人を自分のように愛する」とは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもする」ことです。黄金律は、まさに隣人愛の掟の説明になっています。そして、黄金律や隣人愛の掟をもっと徹底させたのが、愛敵の教えになると言って良いのです。

《自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。》

これらは、黄金律の考え方を説明する三つの具体例です。明らかに、互恵という考え方を批判しています。

「どんな恵みがあろうか」は、理解しにくい言葉です。マタイが「報い」という語を用いていることからも、ここは多くの英訳(graceでなくcredit)のように、「神からどのような栄誉を受けられるだろうか」とすると理解し易いです。

同じ趣旨ですが、ルカはイエスさまのこういう言葉も伝えています。《また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる》(ルカ14章12~14)。また、こういう言葉も思い出します。《自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない》(ルカ12章33)。

《しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。》

もう一度「敵を愛しなさい」と言って、この段落を締めくくります。今度は、それは「人に善いこと」をすること、「何も当てにしないで貸すこと」と言い換えられます。そうすると、天における報いがあります。その報いは、「いと高き方の子となる」ことという説明が付いています。互恵の原則を破ることができるのは、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」、「あなたがたの父が憐れみ深い」ことを、私たちが知っているからです。それゆえ、「あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と命じられます。

きょうのイエスさまの言葉は、ただ単なる弟子たちへの要求ではなく、イエスさまご自身が十字架に向かう中で最後まで貫かれた生き方を表す言葉なのです。十字架の上でもイエスさまは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34)と、ご自分の命を奪おうとしている者たちのために祈られたのです。イエスさまがその生涯で証ししたことは、「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」神の愛でした。

きょうの福音のはじめに戻ります。イエスさまは「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と言って教えを始められました。私たちは人生の大事と思って、毎週、日曜日を礼拝の日として、神の言葉、イエスさまの言葉を聞こうとして集まっています。イエスさまはそういう私たちに向かって語りかけ命じておられるのです。

私たちも今日新たに、決断したいと思います。イエスさまを愛し、イエスさまの愛に生き、敵をも愛する心でもって隣人を愛する道を歩むことを。