Sola Gratia

聖霊降臨祭 説教

聖霊の降臨

「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

きょうの第二朗読で《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした》(使徒言行録2章1~4)、と聞きました。復活祭から50日目に聖霊降臨を祝うことは、この日の出来事に基づいています。

日本語では、ユダヤ教の祭としては「五旬祭」、キリスト教の祭としては「聖霊降臨祭」と訳し分けていますが、もとは「50番目(の日)」を意味するギリシア語「ペンテコステ」という言葉です。五旬祭とは、過越祭の2日目から数えて50日目に守られる祭りという意味です。同じ意味で「七週祭」とも呼ばれています。また、この祭りは元来が小麦の収穫感謝祭であったので、「刈り入れの祭り」とも呼ばれていました。この農耕祭がユダヤ教に採りいれられると、この日はシナイ山で十戒が与えられた日と見なされて、律法を感謝する日として再解釈されました。そして、キリスト教では、復活祭から50日目に聖霊が降った日とされて、聖霊降臨を記念する祭となりました。

イエスさまは復活して神のいのちに上げられ、目に見える形ではいなくなりますが、この日、弟子たちに聖霊が注がれます。弟子たちはこの聖霊に駆り立てられて、福音を告げ知らせ始めました。その意味で聖霊降臨は過越(十字架と復活)の神秘の完成であり、同時に教会の活動の出発点なのです。教会の暦で言えば、ルーテル教会の場合、今週で復活節が終わり、来週からは聖霊降臨後の季節が始まります。

きょうの福音は、ヨハネ13章から始まった最後の晩餐の席におけるイエスさまの説教の最後の部分です。イエスさまは世を去り、目に見える形ではいなくなりますが、違う形で弟子たちと共に居続けると約束しました。説教の中に聖霊を送るという約束が4か所あります(14章16~17、14章26、15章26節、16章7~15)。きょうの福音は、その最後の部分から採られています。では、ご一緒に聖書のみ言葉を見ていきましょう。

《初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。》

「これらのこと」というのは、この前の段落で語っていることを指すと見てよいでしょう。すなわち、《人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。》(ヨハネ16章2~4a)とありました。恐ろしい話です。

イエスさまはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたのち、ガリラヤ地方で宣教活動を始めて、弟子たちを招き、共に町々村々を巡り歩きました。その間は、イエスさまとその弟子たちに対するこの世の敵意、迫害の予告をそれほどはっきりと語ることはなかったのですが、もう間もなく目で見える形で弟子たちのもとに留まることができなくなりますので、今このことを告げておく、と状況を説明なさいます。

《今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、「どこへ行くのか」と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。》

イエスさまが「わたしをお遣わしになった方のもと」に行こうとしているのに、弟子たちは「どこへ行くのか」と尋ねません。このときになっても、弟子たちはいまだ十字架についてさえ思いも及ばないでいます。ましてや、父なる神の御許に上げられることなど、まるで理解することができないでいたことを言っています。なおもこの世的な勝利への期待を捨てきれていなかったものと思われます。その思いは私たちも同じかもしれません。

この世におけるイエスさまとの別れが、弟子たちの心を悲しみで満たしたことは、私たちにも理解できることです。メシアであり世の救い主であるイエスさまが十字架に付こうとは、いくら予告を受けていたこととは言え、衝撃以外のなにものでもなかったはずです。

《しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。》

「実を言うと」は直訳すると「わたしはあなたがたに真実を言う」です。また、「あなたがたのためになる」は「有益だ」という意味で、他の箇所では「好都合だ」と訳されています。イエスさまを死刑にしようとする大祭司が、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」(ヨハネ18章14)と、この世の支配者たちに言う場面に出てきます。彼らは自分たちにとって好都合だと思ってイエスさまを磔にしました。しかし、イエスさまは、自分が死ぬことが実は弟子たちにとってこそ好都合だ、利益なのだ、と言います。イエスさまは、聖霊(弁護者または助け主)を弟子たちに授けるために父のもとへ去るのです。イエスさまは、ご自分が去ることを補って余りある良いものを弟子たちに送るので、悲しみは喜びに変わると約束されます。

地上の生を受けたイエスさまは、いつ・どこで・誰が・何を・という時間と空間の制限を受けたお方でしたが、イエスさまが天に上げられると、神はイエスさまの名において、聖霊を弟子たちに送ってくださいます。聖霊とは、時と所の制限を受けずに、いつでもどこでも誰にでも、弟子たちの一人ひとりに、そして私たち一人ひとりに直接に働きかけてくださる神さまの働きです。私たちがこの神さまの働きかけを知ることができるのは、地上のイエスさまの言葉と行いを通して、人を愛する神さまの信実に心の目を開かれたからです。イエスさまの十字架を通して、私たちは罪の贖い、罪の赦しをいただいて、神を素直に認めることができるようにされたからです。神さまに対して心が開かれると、ものの見方・考え方が変わります。神が私のために配慮してくださっていることに気づくようになります。その体験を弟子たちは「聖霊が私たちのうちに働いている」と表現したり、「復活して今も生きておられるイエスさまが共にいる」(マタイ28章20参照)と表現したのです。この働きは、そのときから二千年後の今に至るまで、キリスト信者が経験してきていることです。聖霊はみ子イエスさまの本質と栄光を、信じる者たちの集いに示してくださいます。そして、イエスさまは今日もこの礼拝において、私たちに語りかけているのです。

《その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。》

「その方」つまり弁護者、聖霊の働きはいろいろありますが、ここでは、聖霊は罪について、義について、裁きについて教える、と言われます。「罪とは、彼らがイエスさまを信じないこと」です。「彼ら」とは、ここでは、イエスさまに敵対するユダヤ人指導者たちを指しています。

「義とは、イエスさまが父なる神の許へ行くこと」と記されています。ヨハネ福音書では、死と復活という言葉を使わず、「父のもとに行く」という言い方をします。この表現で、私たちの救いを成し遂げるために、十字架上で死に、復活し、神の右に上げられることを言っているのです。私たちの目からイエスさまは見えなくなりますが、イエスさまは死んだのではなく、復活しました。復活は神の正しさの証しです。そして、復活のイエスさまを見ないで信じる者は、義と認められます。救われます。

「裁き」とは、「この世の支配者が断罪されること」と記されています。「この世の支配者」は単数形で、サタンを意味しています。ヨハネ福音書は、イエスさまに敵対するユダヤ教指導者たちの背後にサタンの力を見ているのです。この世はイエスさまを裁いて処刑しましたが、実はイエスさまの十字架はこの世の支配者が神によって裁かれた出来事なのです。

式文の受難週の特別序詞が思い出されます。「聖なる主、全能の父、永遠の神よ。あなたは、十字架によって、人類に救いを与えられました。それは死が始まったところから、再び、いのちが現れ、エデンの木によって勝ちを得た悪が、主キリストの十字架の木により、征服されるためです」。

神に究極の忠誠を捧げない生き方は、必ず神でないものを神としてしまいます。そして、第一朗読の「バベルの塔」の物語で聞いたように、人間の間の分裂と混沌を招きます。私たちは、私たちの内に働く聖霊の働きを抜きにしては、真理を見出すことはできません。祈りと黙想と敬虔な生活を通して、聖霊の働きを求めましょう。

礼拝で私たちが毎週唱えている聖霊を求める祈りを、心新たに祈りましょう。

「憐れみ深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また主のみことばへの従順な心を私たちに与えてください」(「罪の告白」に続く「赦しの祈願」)。

「神よ、私のために清い心をつくり、ゆるがぬ霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたのみ前から捨てず、あなたの聖なる霊を私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを私にかえし、喜び仕える霊を与えて、私を支えてください」(奉献唱 詩編51編12~14)。