Sola Gratia

昇天主日 説教

主イエスさまの昇天

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

きょうは、主イエスさまの昇天を祝う日曜日です。きょうの第一朗読で《イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。》(使徒言行録1章3)と聞いたように、著者ルカによると、復活したイエスさまは四十日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました。そこから、昇天の祝日は復活祭後四十日目の復活後第5週の木曜日に祝われることになっていますが、日本のようにキリスト教国でない国では次の日曜日(復活後第6主日)に移して祝われています。

聖書では「四十日」という数字がたびたび出てきます。イエスさまの荒れ野の試練、ノアの大雨、モーセのシナイ山滞在、エリヤの神による養い、ヨナによるニネベの裁きの猶予期間。これらはともに、なかり長い期間を意味しますが、厳密な日数を意味するわけではないことを考えると、昇天の日付についてもその正確さにこだわる必要はないでしょう。

イエスさまの昇天と栄光の座への高挙については、マルコ16章19にもこう述べられています。《主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。》使徒信条でも「三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。そして全能の父である神の右に座し」とあるように、古くから信仰箇条の一つとされています。

「神の右に座す」というイメージは、先ほど交唱しました詩編

110編1《わが主に賜ったみ言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵を足台としよう」》にも表われていました。ここでは、王から全権を任された首相のイメージが、神とイエスさまの関係の比喩として用いられています。イエスさまの弟子たちは、十字架による罪の贖いと救いというイエスさまの働きを信じただけでなく、今も生きて神の栄光と権威をもって君臨しておられるイエスさまの人格または神性を信じたのです。つまり、昇天とは、かぐや姫が飛ぶ車に乗って月に帰るような、目に見える昇天の様子を言っているのではなくて、人の目に見えない昇天、つまりイエスさまが天の栄光に上がられたことを意味しているのです。

きょうの福音の箇所はルカ福音書の結びにあたります。ルカは、福音書の続編として使徒言行録を書きました。この二つの書物を結ぶのが昇天の出来事であり、この出来事を境にしてイエスさまの活動は使徒たちの活動へと受け継がれていくことになります。

では、福音書のみことばに聞いていきましょう。

《イエスは[弟子たちに]言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」》

キリスト教でいう旧約聖書は、ユダヤ教では配列が異なり、三部作としてまとめられています。第一部が律法(トーラーTorah)、第二部が預言者の書(ネビイームNebim)、第三部が諸書(ケトゥビームKetubim、その代表が詩編)と言います。ユダヤ教の聖書は、この三部の頭文字に母音をつけてタナクTaNaKhまたはタナハTaNaChと呼ばれます。

イエスさまは、聖書がメシアについて預言されていることは必ずすべて実現すると言います。キリスト教の立場からは、旧約聖書はメシア(ギリシア語でキリスト)についてこれから起こることが預言されている書物、新約聖書はそれらの預言がイエスさまにおいて実現したことを証しする書物ということができます。

《そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。》

聖書(旧約聖書、タナク)には、文字通りにメシアの受難と復活を預言する言葉はありません。「[聖書に]書いてある」というのは、それが神の救いの計画であることを表す表現でもあります。このことを悟るためには、復活して今も生けるイエスさまの霊に導かれること、心の目が開かれることが必要です。そのとき、聖書の預言するメシアとはイエスさまのことであると信じることができるようになります。それは、2000年前のことだけではなく、現在の私たちにとっても同じです。

《また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。》

心の目が開かれて、イエスさまの十字架と復活が私たちに対する神の愛と信実の証しであると受けとめることができたキリスト者は、罪が赦されていることを悟り、悔い改め、心を翻して神へと立ち帰り、イエスさまのみ名を信じます。そのような出来事は、イエスさまが「父が約束されたもの」を弟子たちに送るとき、そして弟子たちが「高い所からの力」に覆われるときに起こります。弟子たちに聖霊が与えられるという約束です。そのときをエルサレムにとどまって待ちなさい、とそうイエスさまは弟子たちに言い残して、天に帰られます。

このことは、2000年前にエルサレムにとどまっていた弟子たちに始まったことですが、彼らは自分たちの身に起こった信仰を、そしてその対象であり根拠でもあるイエスさまの神性と愛の働きを人々に宣べ伝えていきました。それは、イエスさまの愛の力に押し出されてしたことであって、その宣教活動をしてもしなくても勝手なこととは受けとめませんでした。マタイ福音書の最後に、《イエスは、[弟子たちに]近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」》(28章18~20)とあるように、イエスさまの愛に応える、当然なすべきことと受けとめたのです。

もちろん、弟子たち(使徒たち)が福音のメッセージを伝えていくのですが、彼らは、それを自分たちをとおして、時間と空間を超えた復活のイエスさまご自身があらゆる場所の、あらゆる時代の人々に福音を伝えていくことと受けとめました。聖霊が、あるいは目には見えませんが今も生ける復活のイエスさまが、福音を告げ知らせる働きの本当の主人公だということです。使徒たちは、過去のイエスさまの出来事の証人であるだけでなく、今、自分たちの中で神が、復活のイエスさまがなさっていることの証人なのです。「あなたがたはこれらのことの証人となる」とは、そういう事態を言っているのです。

《イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。》

ベタニアは、オリーブ山の東南麓にある村で、エルサレムから東に約3KMのところにあります。イエスさまの生涯に関わりの深い土地で、ラザロとマルタ・マリアの姉妹の住んでおり、イエスさまはラザロを生き返らせました(ヨハネ11章38以下)。また重い皮膚病のシモンの家もあって、そこでは食事の席で埋葬の準備のためにイエスさまはナルドの香油を注がれたことがありました(マルコ14章3~9)。このベタニア村に近いオリーブ山で、イエスさまは昇天されたと考えられます(使徒言行録1章12)。そして、この山の上にメシアは再臨するものと信じられていました。《その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる》(ゼカリヤ14章4)。

そのオリーブ山でイエスさまは弟子たちを祝福するうちに、天に上げられました。そのとき、弟子たちはイエスさまを「伏し拝んだ」とあります。「伏し拝む」は、神を礼拝することを表わす言葉です。イエスさまの生涯を描くルカ福音書では、福音書の最後のこの一か所でだけ、イエスさまが弟子たちに神として礼拝されたことが記されています。十字架・復活・昇天の後に初めて、イエスさまは神として啓示され、礼拝されます。つまり、ここで初めて弟子たちはイエスさまとはどういう方であるかを本当に悟ったわけです。そして弟子たちは大きな喜びをもってオリーブ山からエルサレムに戻り、聖霊の降臨を、力の賦与されるのを待ったのです。

こうして、イエスさまが弟子たちに特別な形で姿を現す期間は終わり、目に見えない形で彼らとともに生き続ける新しい時代が始まります。ですから、昇天はイエスさまの物語の終わりではありません。「全能の父である神の右に座し」ておられるイエスさまに対する信仰の始まりです。昇天したイエスさまは、もはや人間性の限界を超えて、いたる所であらゆる時にイエスさまを愛する者たちと共にいます時が来たのです。弟子たちにとって昇天はイエスさまとの最後的な別離ではありません。昇天をイエスさまが「世の終わりまで、いつも私たちと共にいる」という約束を実現する新しいあり方への移行されたことと受けとめたのです。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。

来週は聖霊降臨祭です。イエスさまの昇天後、弟子たちがひたすら聖霊に満たされることを待ち望んだように、私たちもまた聖霊に満たされることを祈り求め、上よりの力に覆っていただくことを求めましょう。