Sola Gratia

復活後第5主日 説教

聖霊を与える約束

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

先週に続き、最後の晩餐の席でのイエスさまの言葉です。イエスさまは、自分は目に見える形ではもういなくなるけれども、何かを残すということをさまざまな形で約束します。その中心は「聖霊を与える」約束だと言えるでしょう(14章16~17,26;15章26~27;16章7~15)。イエスさまが世を去って父のもとに行ったとき、弟子たちに残されるもの、与えられるものは何よりも聖霊なのです。聖霊を与える約束は、来週の昇天主日、再来週の聖霊降臨祭を迎える準備でもあります。

《イエスはこう答えて言われた。》

きょうの福音はいきなりイエスさまが弟子たちに答える場面で始まっていますが、質問はこういうものでした。《イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った》(22節)質問をした「イスカリオテでない方のユダ」は、ルカ6章16と使徒言行録1章13では「ヤコブの子ユダ」と呼ばれています。マルコとマタイにはこの名はなく、この名のあるべきところに「タダイ」という名が載っています(マルコ3章18とマタイ10章3)。ということは、「ヤコブの子ユダ」は「タダイ」という別名をもっていたと考えられます。後代の伝承では、彼は熱心党のユダとも呼ばれています。熱心党とは「熱心な者」という意味ですが、国粋主義者の団体であって、外国勢を排斥す

るためには暴力行為も辞さない人たちでした。熱心党の運動は、ローマ総督が住民登録を強いた際に「ガリラヤのユダ」が起こした反乱に始まります。この人については、使徒言行録5章37が触れています。

かつては熱心党に所属したことがあったであろう「ヤコブの子ユダ」の質問の主旨は、おそらくこういうことでしょう。「今やまさに先生がメシアであることを公にすべきときです。群衆の中に出て行って、ご自分がどういうお方であるかを明らかにし、その力を示すべきではないでしょうか。人々が武器を持って先生に従うよう呼びかけるべきだと思います」。この問いに、イエスさまは答えて言います。

《わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。》

イエスさまはすでに先週の福音でご自分の愛を、すなわちご自分の真価をどのようにして世に現わそうとされるのかを語っておられます。《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる》(13章34~35)と。つまり、人間に対する神の愛と信実を体現する方としてのイエスさまは、その愛を知り、その愛を受け取った者がその愛に応えて、自分から神とイエスさまを、そして隣人を愛することによって現わされるようになります。その意味では、イエスさまは直接に世にご自身の真価を現わされません。これがイエスさまの答えでした。イエスさまの言葉が分からない人、イエスさまの愛を受け入れない人については、私たち信仰者の愛の証しが求められているのです。イエスさまを愛することと隣人を愛することは、密接な関係をもっているということです。

イエスさまを愛する人は、父なる神からも、み子イエスさまからも愛されます。そして父と子とはその人のところに行き、一緒に住む、と約束してくださいます。これについて、イエスさまはすでにこう話しておられました。《かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる》(14章20)。父なる神とみ子イエスさまが私たちと共にいることをどのようにして知ることができるのでしょうか。そのことを次の段落が語ります。

《わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。》

この箇所で、聖霊は「別の弁護者」と呼ばれています。「弁護者」とは、もともとは「そばに呼ばれた者」という意味の言葉です。裁判の席では、そばにいて助けてくれる人という意味で「弁護者」の意味になります。もっと一般的には、「一緒にいて支えとなってくださる方」と受け取って、「慰め主」とも「助け主」とも訳されます。

ヨハネの第一の手紙2章1には《御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます》という言葉があります。これは復活して神のもとに上げられたイエスさまのことですが、イエスさまこそが第一の弁護者であるということができます。そこで、ここでは、聖霊について「別の弁護者」と呼ばれているのでしょう。

《わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。》(14章16~17)。

聖霊が与えられると、この方が私たちと共に、そして私たちの内におられることによって、「子が父におり、父が子におられる」ということだけでなく、私たちがみ子の内におり、み子が私たちの内にいることが分かる」(14章20)とありましたが、これは、父と子が私たちと家を共にするということと同じことを意味しています。つまり、「弁護者である聖霊が私たちに与えられて、私たちと共に、そして私たちの内にいる」ということと、「父と子が私たちと一緒に住む」ということは同じことになります。聖霊というと何か神がかり的なことを想像しがちですが、キリスト教でいう聖霊とは、イエスさまの再来であることを、今日の聖書ははっきりと示しています。

《聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる》と約束されています。聖霊が教えるのですが、その教えはイエスさまがこれまで教えてきたことと違うのではありません。「イエスの言葉を思い出させる」というのは、ただ単に忘れていた言葉を思い出すという意味ではありません。私たちが人生の中でさまざまな体験をしたとき、「そうだ、確かにイエスさまのおっしゃったあの言葉は真実なのだ」と悟ることを指しているのでしょう。

《わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。》

イエスさまに起源する平和は、聖霊が共にいるということです。イエスさまから遣わされる聖霊を抜きにした平和は、にせの平和です。世が与える平和、それは世の支配者が与えようとする平和であり、また私たちが通常考える平和でもあります。それは繁栄であったり、健康であったり、力であったりします。また、戦争がない状態を平和という場合もあります。家族がみな健康で経済的にも安定している状態を平和と言う場合もあるでしょう。しかし、イエスさまがここでおっしゃっている「平和」とは、そういう平和ではありません。ここでイエスさまが語りかける「あなたがた」とは、弟子たちのことであり、また私たちキリスト者のことです。「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」という約束の言葉を聞いて、信じている人々のことです。そして、イエスさまを愛するが故に、イエスさまが父の許へ行くことを喜んでいる人々のことです。イエスさまが父の許へ去り、戻って来るとは、十字架の死を通して罪人の罪を贖い、復活して天に上げられ、聖霊において帰ってくることであり、それはイエスさまが永遠に私たちと共に生きてくださることです。私たちを父の家に迎え入れてくださるイエスさまが、私たちをご自身の住いとしてくださることなのです。

16章33には、こうあります。《これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。》信仰と愛によって、私たちが神の内に生かされ、神が私たちの内に生きてくださる。それこそが、イエスさまが与えてくださる平和であり、その平和が与えられることで喜びに満たされる者たち、それがイエスさまの弟子であり、私たちキリスト者なのです。