Sola Gratia

復活後第4主日 説教

互いに愛し合いなさい

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

《さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。》

復活節第4主日と第5主日(今週と来週)には毎年、ヨハネ福音書から、最後の晩餐の席でのイエスさまの言葉が読まれます。イエスさまは世を去るにあたって、弟子たちに向けて遺言のような長い説教をしました。「告別説教」と言い習わされています。その始まりがきょうの箇所で、それは16章の終わりまで続きます。イエスさまは金曜日に十字架に付けられるのですが、その前の晩に弟子たちと最後の食事をします。この晩餐の席でイエスさまは聖餐式を設定なさいました。私たちはそのことを礼拝の度に聞いています。「聖なるみ心を成就し、私たちの救いを成し遂げるために、私たちの主イエス・キリストは苦しみを受ける前日、パンを取り、感謝し、これを裂き、弟子たちに与えて言われました。・・・」

ユダについては、この章で既に触れていました。《夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた》(2節)。ヨハネによれば、悪魔とはイエスさまを裏切る考えを抱かせるように働く力です。この悪魔の定義は、分かり易いと思います。《ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった》(30節)。こうして、ユダはユダヤ教の指導者たちに銀貨30枚でイエスさまを売ります。ユダが去ったあと、イエスさまは告別説教を始めるのです。

《今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。》

これが、告別説教の始まりの言葉です。ここでは、ユダが裏切ることとイエスさまが栄光を受けることとが関連あるものとして描かれています。ユダの裏切りとイエスさまの受難をとおして、神がどのようなお方か、イエスさまが本当はどのようなお方かが明らかに顕されるのです。イエスさまの十字架の受難は、無力・挫折・孤独・苦痛・屈辱の出来事であり、栄光とは正反対に見えます。しかし、ヨハネ福音書の視点は違います。終わり(イエスさまの高挙)を見た上で、初めに戻って書いているので、受難を描くときも、そこに復活と昇天の始まりを見ています。十字架と共に、それを透かしてその先が見えているのです。

では、なぜ受難が栄光なのでしょうか。それはヨハネがイエスさまの受難の中に「愛の極限の姿」を見ているからです。ヨハネは受難の物語(ヨハネにとっては栄光の物語)を始めるにあたり、こう書いています。《さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた》(13章1)。「この世から父のもとへ移る」とは、ただ十字架に上げられることだけでなく、天の父のもとへ上げられること、つまり復活・昇天・高挙をも意味しています。

「上げられる」が磔刑と高挙という二重の意味をもつこと、そしてイエスさまの受難が愛の極限の姿であることは、この福音書の良く知られた箇所にも表われています。《そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである》(3章14~18)。ここには、神がイエスさまに与える栄光は、イエスさま個人のものというよりも、イエスさまを信じる者に救いの命を与えることによって顕される栄光であることが示されています。イエスさまの十字架の死は、神の愛と裁きの出来事です。神の裁き、遠い将来のことでなく、それはイエスさまにおいて実現しているのです。イエスさまを通して神の信実を信じる者は、今すでに永遠の命(神と共に歩む人生)を与えられると約束されます。ここに、イエスさまの本当の姿と神の本当の姿とが、したがってイエスさまの栄光と神の栄光とが顕されているのです。

《子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。》

ヨハネの「ユダヤ人たち」という言葉が、当時のユダヤ教指導者たちを指すことは、先週、注意しておきました。彼らが、イエスさまはどこから来てどこへ行くのか分からなかったと同じよう

に、弟子たちも今はまだ分かっていません。しかし、もう間もなく、弟子たちはイエスさまの復活の霊に満たされて、それを悟ることでしょう。こういう状況にある弟子たちにイエスさまは「新しい掟」をお与えになります。

《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。》

イエスさまは世を去るに当たり、「愛の掟」を残して行きます。この場合の「掟」という言葉は、命令とか義務というよりも、むしろ生き方の根本原理と理解したらよいのではないでしょうか。弟子たちの生き方の中心は「互いに愛し合う」ことだという大切な教えをイエスさまは残してくださったのです。

旧約聖書にも「隣人を愛しなさい」という掟がありました(レビ記19章18)。この「掟」が「新しい掟」と呼ばれるのはなぜでしょうか。その「新しさ」を二つの面から考えることができます。一つの新しさは、「愛する」だけでなく「互いに愛し合う」という点です。「互いに」とは、「自分がこれだけ愛した」という自己満足的な愛から、私たちをもっと豊かな人と人とのかかわりに招く言葉だと言えるでしょう。愛は一方通行ではなく、人と人との間にある、深い心のつながりを表すものだからです。

もう一つの新しさは「わたしがあなたがたを愛したように」という点です。「わたしがあなたがたを愛した」とはすなわち、一人ひとりは神に愛されている尊い存在であるということであって、これは、人の生き方を考える上での基本中の基本です。また、ここの「ように」は単なる模範ではありません。生き方の規範であり、新しい生き方の可能性を開く原理が示されているのです。

「互いに愛し合う」ことから「わたしがあなたがたを愛したように」という規範を取ってしまえば、自分の、会社の、国家の勝手な解釈によって、愛はゆがめられてしまいます。私たちはこの規範を、つまり自分を省みる視点を自分の外に持っています。私たちキリスト者はこの一点で他の人々と違うのです。

この点について、ヨハネの第一の手紙はこう言っています。《神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内でまっとうされているのです》(Ⅰヨハネ4章9~12)。

私たちが愛し合うとき、私たちがイエスさまの「弟子であることを、皆が知るようになる」ということも大切な点です。私たちがイエスさまの弟子であること(キリストが今も生きていて私たちを導いていてくださること)は、根本的に私たちキリスト者の生き方をとおして表されるのです。

父なる神さま。私たちはあなたの愛と信実に依り頼みます。あなたの掟を愛する心、あなたの約束への切なる望みを私たちに興し、激しく変動するこの世界の中でも、動くことのない喜びをお与えください。