復活後第3主日 説教
宮清めの祭り
- 2013年4月21日(日)
- 復活後第3主日
- ヨハネ10章22~30
そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」
《そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。》
神殿奉献記念祭という聞き慣れない名が出てきました。この祭りはユダヤ教でハヌカー(奉献という意味)と呼ばれる祭りのことですが、口語訳聖書では「宮清めの祭り」と訳されていました。しかし、「宮清め」と聞きますと、この言葉はむしろヨハネ2章後半に書かれている、イエスさまがエルサレムの神殿に上り、両替人や商売人を追い出された、あの宮清めの方を思い出すのではないでしょうか。新共同訳ではハヌカーの祭を神殿奉献記念祭と訳し直されました。
この祭は、紀元前164年12月14日に祭司の出であるユダ・マカベウスがセレウコス朝シリアの支配を打ち破り、エルサレムの神殿からギリシアの神々の主神ゼウスの祭壇を取り除いて神殿を清めたことを祝うものです。この祭は年によって移動し、11月下旬から12月下旬の間の八日間、八枝または九枝の燭台のロウソクに毎日ひとつずつ火を灯し、八日目には八つのともし火全部に火をつけて祝います。このことから、ハヌカーの祭は「光の祭」とも呼ばれています。冬の闇夜に輝く光の到来を待つのです。これは、外国による弾圧と迫害に抵抗し、神の力によって勝利できたことを記念する、政治的、民族的な色彩の濃い祭りでして、この祭りはユダヤ人の間で今も大切にされています。
この出来事については、旧約聖書の続編、マカバイ記一の4章
に記されています。私たちは続編にはあまりなじみがないか知れませんが、ヘンデルのオラトリオ「ユダ・マカベウス」1884年の中の、ユダ・マカベウスのエルサレム凱旋を称える行進曲「見よ勇者は帰る See the conquering hero comes」なら知っていると思います。この曲は、聖句から讃美歌の歌詞が付けられ、教団旧讃美歌130「よろこべや、たたえよや」(教会讃美歌453「さかえあれ、死に勝ちて」)として、日本や英語圏では復活節に、ドイツでは待降節に、オランダでは結婚式や葬式によく歌われるということです。余談になりますが、この曲は、日本では明治9年に政府が制定した式典歌集に取り入れられて、得賞歌として演奏されるようになり、もう120年以上演奏され続けられています。ただし、内容がユダヤの勝利を称える歌という理由で、イスラム国の反発があるため、オリンピック、ワールドカップなど国際的な大会では、使われなくなったということです。
《イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」》
「ソロモンの回廊」は、実際にはソロモン神殿に遡るものではありませんが、その名で呼ばれていました。ヘロデによるエルサレム神殿の外庭「異邦人の庭」の東の外壁を背に、庭の内側に向かって開かれた柱廊です。二列に並んだ大理石の円柱がつらなる上を、屋根がおおっている豪華な長い廊下だったそうです。
「ユダヤ人たち」という言葉も、福音書の著者ヨハネがどういう意味で使っているかを理解して読むことが必要です。ここでは「ユダヤ人たち」とイエスさまとの対立関係が描かれていますが、
だからと言って、ヨハネは決して現代のユダヤ人またはユダヤ教徒たちまでがイエスさまの死に責任があると考えているのではありません。イエスさまも弟子たちもユダヤ人でありユダヤ教徒でした。当時はユダヤ教徒の間でメシア像の理解に分裂と対立が生じていたのです。ヨハネが「ユダヤ人たち」と呼んでいる人たちは、イエスさまをメシアとして受け入れなかった当時のユダヤ教の指導者層の人たちのことです。きょうの福音の中心ポイントは、イエスさまがメシアであるか否かということです。その答えは、メシアという言葉でどのような人を指すのか、メシア像の理解の仕方によるのです。
イエスさまを取り囲んだ指導者たちが、「いつまで我々に気を持たせるのか。お前が本当にメシアなら、ここらではっきり『私がメシアだ。私について来い』と号令をかけるべきだろう。」そう言って迫った人たちの「夢よ、もう一度」の背景には、かつてのユダ・マカベウスの勝利がありました。著者ヨハネは、その日がハヌカーの祭の日であったと強調しています。
マカベウスらの勝利のエルサレム帰還に際して、人々はシュロの葉を打ち振り、ホサナ、ホサナと叫んで、軍馬に乗る勇者たち、とくにもユダを新しい王・メシアとして歓迎しました。この故事にならって、イエスさまが入城したときに、人々はやはりシュロの葉を打ち振り、ホサナ、ホサナと叫んで、子ロバに乗るイエスさまを新しい王・メシアとして喜び迎えたのです。これら二つの入城の姿は対照的なメシア像を表わしています。毎年、復活後第3主日には、ヨハネ福音書10章の羊と羊飼いのたとえが読まれます。そのため、「よい羊飼いの主日」と呼ばれます。きょうの福音では、軍事的政治的なメシアではない、イエスさまを新約聖書独自の「よい羊飼い」としてのメシア像が描かれます。
《イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。》
「ユダヤ人たち」つまりユダヤ教の指導者たちに、イエスさまは簡潔に答えます、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と。問題は、イエスさまの側にあるのではなく、信じようとしない彼らのかたくなな心にあったのです。イエスさまはきょうの福音の少し前で「わたしは良い羊飼いである」(11節、14節)という話をしていますが、それに対しても、イエスさまに耳を傾ける人たちに向かって、指導者たちは「なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか」と反対しています。ですから、彼らが気をもんでいるのは、イエスさまがご自分について明らかに語らなかったからでなくて、不信仰のために、明らかにされていることを見分けられないからだったのです。それで、イエスさまはご自分が人々の目の前で行っている業、行いを見なさい、そうすれば、イエスさまが神から来た方と知るはずだと言います。しかし、それをも彼らは信じません。信じないだけでなく、イエスさまたちの群れを排除して、さらには、イエスさまを石で打ち殺そうとさえします(31節)。
そこで、イエスさまも、彼らは「わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と言っています。イエスさまは、人々の間に、ご自分を信じる人と信じない人、聞き従う人と聞こうとしない人とに分裂が起きることを承知しています。信じる者に対しては、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と言います。羊は自分たちの羊飼いの声を聞き分けて、喜んで従うという意味です。羊飼いに対する羊の関係を的確に表しています。また、「わたしは彼らを知っており」というのも羊に対する羊飼いの関係を明瞭に表しています。「知る」という言葉は、ただ知識として知るのではなく、交わりの中で親しく知るという意味であり、愛すること、共に生きることを表わしています。
良い羊飼いであるイエスさまと聖書を通してイエスさまの御声に聞き従う私たちイエスさまの羊との関係も同じです。イエスさまは、私たち一人ひとりの名前を知っていてくださり、さらに、私たち一人ひとりのすべてを交わりの中で親しく知っておられます。私たちの罪も欠点もご存じです。それでも、私たちを遠ざけることなく、愛して、大事にしてくださり、聖書のみ言葉を通して、私たちの心を豊かに養い、命の水を注いで日々育ててくださいます。私たちは、良い羊飼いイエスさまの御声に日々喜んで従い、救いと祝福と永遠の生命をいただくのです。イエスさまにおいて、きょう讃美頌で交唱した言葉が成就したのです。《主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける》(詩編23編2~4)。
《わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」》
イエスさまは死なれました。《わたしは良い羊飼いであある。良い羊飼いは羊のために命を捨てる》(11節)。しかし、そのいのちは奪われたのではなく、ご自分からそのいのちを羊のために差し出されたのです。《わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」》(17~18節)。イエスさまは墓に葬られました。しかし、イエスさまはそこに閉じ込められてはいません。復活して今も生きて「良い羊飼い」として、羊とともにあり、羊を導いてくださっています。この力ある牧者の手から、誰も羊を奪うことはできません。
それだけでなく、イエスさまは、もうひとつの大きな手が私たちを守り、支えていることを明らかにしました。それは、父なる神の御手です。「わたしの父がわたしにくださったもの」つまり私たち羊の群れを「だれもわたしの父の手から奪うことはできない」と言います。父なる神さまのみ手とイエスさまのみ手が、私たちを守り、支え、導いてくださると言うのです。この恵みの約束の中で、私たちがこの人生をさらに力強く歩むことができます。厳しい現実や死に直面したときにこそ、この約束はわたしたちに大きな力を与えてくれるのではないでしょうか。この大きな恵み、揺るがない約束があるからこそ、今この時、私たちたちは羊の群れの大牧者イエスさまに従う決断をすることができるのです。