Sola Gratia

復活後第2主日 説教

イエスの復活顕現

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

《こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。》

イエスさまが復活した日曜日の夜のことです。弟子たちはエルサレムのある家にひっそりと集まっていました。マルコの家だったかもしれません。使徒12章12にこうあります、《こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。》その家では、いろいろな情報が入り乱れて、一体何が起こったのか、弟子たちは期待と不安に捕えられて混乱していました。女性たちは墓場で天使たちに会ったと言い、マグダラのマリアは復活したイエスさまに会ったと言うし、ぺトロとヨハネは墓が空だ、またクレオパたちはエマオへ向かう途上で復活したイエスさまに会ったと言うという具合でした。

そんな弟子たちのところに突然、イエスさまが現われます。そして、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と挨拶します。たぶんユダヤ人の挨拶の言葉「シャローム」と言ったのでしょう。しかし、イエスさまの言葉「シャローム、平和」は、ただの挨拶ではなく、裏切った弟子たちの不実を赦すことをも意味していたと思われます。

弟子たちはユダヤ人を恐れ、戸を閉めきっていました(ヨハネ20章19)が、イエスさまはその真ん中に立たれます(26)。これは、復活のイエスさまは恐れや不安におののいている人々の真ん中に来てくださるということです。

復活の日、弟子たちはそれぞれの場でイエスさまと出会いました。そして、その経験を分かち合うために一か所に集まってきました。そこでふたたび復活のイエスさまと出会います。このようにして、復活の日である日曜日ごとに弟子たちは集まるようになりました。礼拝を通して、この場にいてくださる復活の主イエスさまにまみえるためです。私たちの教会の集まりも同じです。復活のイエスさまが集いの真ん中に来てくださることを信じ、私たちを助け、励まし、導いてくださるよう祈るのです。

《彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」》

目の前で起こっていることは、やはり俄かには受け入れがたいほどの不思議な出来事であったということでしょう。イエスさまは十字架上の死でもって救いのみ業を完遂し、神の国の福音を証しする使命を果たして、天の父の許へと帰りました。そこから弟子たちにこのことを伝えるために、イエスさまは復活のお姿を弟子たちに現わしてくださいました。先々週の復活祭の日にはマグダラのマリアに現われたことを読みました。先週はエマオに向かう二人の弟子に現われました。今週は弟子の集まりに現われます。この三つの記事とも、はじめに弟子たちはそれが復活されたイエスさまだとは分からなかったと書かれています。きょうの箇所では、亡霊が出たと思って、恐れおののいたとあります。イエスさまは、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と言って、手や足をお示しになりました。

《こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。》

差し出された手や足には磔の釘あとが残っており、弟子たちはこの人がまさしく十字架にかかったイエスさまであることを認めたことでしょう。釘あとは、弟子たちの裏切りを責めるものともなりえます。弟子たちはその罪責の念から「亡霊」を怖じ恐れたのかもしれません。しかし、イエスさまの「平和あれ」という挨拶に表わされているように、釘あとは弟子たちに対する赦しと愛のしるしとして示されたのです。それだけでなく、弟子たちの見ている前で、焼き魚を食べて見せます。イエスさまは、このように、何としても弟子たちにご自分の復活を、そして救いのみ業の完成を伝えたかったのだと思います。弟子たちの心を開こう、見えなくなってしまった信仰の目を開こうと一生懸命です。このイエスさまの弟子たちを思う必死のパフォーマンスは、ユーモラスでさえあります。弟子たちはイエスさまの篤い愛を今度はしっかりと受けとめることができただろうと思います。

しかし、聖書によると、弟子たちはイエスさまの手足や魚を食べるところを見て、復活信仰を得たわけではありません。彼らが本当に信じる者に変えられるのは、人の心に働きかけるイエスさまと聖霊の働きによったのです。きょうの福音の続きに、こう書かれています。《イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」》(ルカ24章44~48)。十字架上でひとたび死んだイエスさまが復活した姿を弟子たちに現わすことは、ただイエスさまが復活したこと自体を告げることにとどまりません。聖書が預言し待望していた人類の救いが、イエスさまの十字架と復活において実現したことを悟り、イエスさまを世の救い主として信じることへの招きです。イエスさまの救いのみ業において表わされた神の恵みにより頼むことへの招きです。復活の光の中で、十字架の愛がはっきりと見えてくるのです。

パウロは、イエスさまの復活について、《しかし、実際、キリストは、死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました》(Ⅰコリント15章20)と言っています。イエスさまの復活は、私たちも復活することを表わしています。

教会の信仰告白「使徒信条」の中で、私たちは「からだの復活を信じます」と告白しています。復活は「からだの復活」です。霊魂だけの復活でも「亡霊」でもありません。ラザロの復活のときに、イエスさまが復活を信じるかと尋ねると、《マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」》と答えました。そういうことなら、日本人にも分かり易いでしょう。しかし、《イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の

子、メシアであるとわたしは信じております」》(ヨハネ11章25~27)と続きます。このマルタとイエスさまの問答の意味することは、復活とは、私たちが死後に天国でイエスさまと共に至福のときを過ごすということでもありますが、それだけでなく、今この世における私たちの日常生活のただ中に復活のイエスさまが共にいてくださるということです。私たちのあずかる復活のいのちとは、この世を去って天国に行くのではなく、いわば天国がここに下りてくる、そういう希望と喜びの信仰なのです。

この信仰は、聖書に書かれていることをただ聞いて知っているというのでなく、イエスさまの解き明かしによって、弟子たちがそれを自分の身に実現したことを納得することから生じました。同様に、私たちも聖書の言葉をいくら知っていても、からだの復活を信じることはできるものではありません。でも、聖書の言葉が自分のこととしてよく分かったとき、腑に落ちたときには、イエスさまが本当に生きていることを信じることができます。私たち自身、死後でなく今、復活のいのちに生き始め、信仰生活に歩み入ることができます。イエスさまはいのちの道を拓いて、この道に歩み入るよう私たちを招いておられます。復活の主イエスさまに出会うことから始まった私たちの信仰の歩みが祝されるよう祈ります。