全聖徒の日(墓前礼拝) 説教
天から与えられる住みか
- 2026年11月1日(日)
- 全聖徒の日(墓前礼拝)
- 2コリント5章1~5
1わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。 2わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。 3それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。 4この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。 5わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
1. 地上の「幕屋」と天の「建物」
コリントの信徒への手紙二 5章1節から5節に書かれている、天の希望と神の恵みについて深く耳を傾けていきましょう。
パウロはまず、私たちの現在の肉体と、将来与えられる体を対比させて語り始めます。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたではない天にある永遠の住みかです」
(1)。
ここで使われている「幕屋」とは、持ち運びができるテントのことです。風雨に晒されれば破れ、いつかは崩れてしまう仮の住まいにすぎません。パウロは私たちの弱く朽ちていく肉体を、このテントに例えています。それに対して、神が天に備えてくださるものは「建物」です。これは人の手で建てられたものではなく、決して滅びることのない永遠の住み処です。
神は、ご自分の子供として招いた私たちを、一時の地上生活だけで終わるものとはせず、御前で永遠に共に生きる存在として尊んでくださいます。罪と死によって傷つくこの地上の体を、神の栄光に与かる力強い体へと完成させるために、神はこの素晴らしい住みかを備えておられるのです。
2. パウロの職業(テント造り)と「幕屋」の比喩のリアルさ
パウロの職業は「テント造り」でした(使徒言行録18章3)。パウロにとって「テント」は、日常的に布地を裁ち、縫い合わせ、使い古されて破れていく様子を見てきた身近なものでした。
テントは持ち運びやすく便利ですが、風雨に晒されれば破れる、あくまで「一時的な仮住まい」です。一方で「建物」は、基盤がしっかりとしていて動くことがなく、雨風を防ぐ「永遠の住処」です。「粗末で傷つきやすいテント」と「神の手による確かな建物」を対比させることで、パウロは自身の衰えゆく肉体と、将来与えられる栄光のからだの差を語ったのです。
3. 「着る」ことの恵み
パウロは、この天の住みかを受け取ることを「上に着る」という衣服のイメージで表現しています。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」
(2)。
私たちが神の前に立てるのは、自分自身の立派さではなく、神が被せてくださるキリストの義と恵みがあるからこそです。今はまだうめき苦しむ肉体の中にいますが、やがてその肉体ごと天の栄光に包み込まれるという「将来の完全な救い」が約束されています。つまり、洗礼によってキリストと結ばれて現在「キリストを着ている」(ガラテヤ3章27)者は、やがて来たるべき天の住みかを上に着る者なのです。
4. 「裸のままではいない」という言葉と当時のギリシャ思想
3節には少し不思議な表現が出てきます。「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」
。ここで言う「裸」とは、肉体を失って霊だけの状態になることです。当時、コリントの街で影響力を持っていたギリシャ哲学(プラトン思想など)では、「肉体は魂の牢獄であり、死によって肉体を脱ぎ捨て、霊魂だけになることこそが解放であり救いである」と考えられていました。
しかし、地上の体を「悪」として脱ぎ捨てることを、パウロは否定します。聖書が語る救いは、霊魂だけの存在になること(=裸)ではありません。神は私たちの肉体をも大切に思っておられ、世の終わりに「新しい栄光のからだ」を与えて完成させてくださいます。ここには、神の救いは霊魂だけでなく、私たちの全存在(からだも含めた全体)におよぶというキリスト教独自の身体観、復活観が込められています。
5. 神が私たちを「ふさわしい者」とする働き
さらにパウロは、こう続けています。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」
(4)。
「死ぬはずのものが命に飲み込まれる」とは、死や滅びという暗闇が、キリストの圧倒的な命の光と力によって完全に消し去られることです。パウロの願いは、この弱く死ぬべき肉体が、キリストの復活の命によって新しく変えられ、包み込まれることです。病や老い、死の恐怖に怯える私たちの弱さが、主イエスの圧倒的な命に包まれるとき、死は完全にその力を失います。
パウロははっきりと宣言します。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です」
(5a)。「このようになる」とは、地上のうめきを超えて、天の永遠の住みかを着せられ、死が命に飲み込まれる栄光の復活に与かることを指しています。
私たちをふさわしい者とするために、神が御子イエスさまを世に遣わされました。イエスさまは、私たちのために十字架にかかり、罪の贖いとなりました。神ご自身が、ご自分の独り子の命という大きな代価を払って私たちを買い取り、天の住みかを受け取るにふさわしい資格を与えてくださったのです。
6. 保証として与えられた“霊”
神のこの約束は確かなものです。「神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」
(5b)。 ここで「保証」と訳されている言葉は、当時の商業用語で「手付金」や「内金」を意味します。家や土地を買うときに、契約が確実であることを示すためにあらかじめ支払うお金のことです。
神は、将来私たちに与える天の栄光と復活の命が絶対であることを示すために、頭金として聖霊を私たちの心に送ってくださいました。私たちが祈るときに与えられる神の平安、御言葉を聞いたときに沸き立つ喜び、罪を悔い改めたいと願う思い、そして「神さま、お父さま」と呼ぶことができる信仰の確信。これらすべては、私たちの内におられる聖霊の働きです。
今、私たちが聖霊によって味わっている神の恵みは、将来天で味わう永遠の喜びの「手付金」です。私たちに代わって手付金を支払われた神は必ず、私たちを完成へと導いてくださいます。
7. 「見えないもの」への視点
この5章は「わたしたちは知っています」という確信の言葉から始まりましたが、これは直前の4章最後の言葉と深くつながっています。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新しくされていきます。
…わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に続きます。」
(2コリント 4章16,18)
パウロは、病と老い、迫害による疲弊で、「外なる人(肉体)」が衰えていく現実に直面していました。しかし、彼は「見えないもの」、すなわち神の約束と聖霊の働きに目を注いでいたからこそ、絶望せず、「滅びても、神の建物があることを知っている」と希望の言葉を力強く言い切ることができたのです。
おわりに: 主とともに歩む日々の力
地上での歩みには、肉体の衰えや病、生活の難しさ、人間関係の苦しみなど、多くの重荷と「うめき」が存在します。パウロ自身も絶え間ない迫害と苦難の中にいました。それでも、彼が挫けることがなかったのは、目に見える現実の後ろに、神が備えてくださっている「目に見えない永遠の家」を信仰の目で捉えていたからです。
私たちもまた、日々の重荷に押しつぶされそうになるとき、この約束に目を留めましょう。私たちの体は仮のテントのようなものですが、神の手による永遠の我が家が用意されています。そして、その保証である聖霊が、今も私たちのうちに共におられます。
この確信と心強さを胸に、今日も目に見える状況に振り回されることなく、信仰をもって主イエスとともに歩んでいきましょう。
祈りましょう。天の父なる神さま。み子イエスさまを通して与えられた恵み、救いの約束のゆえに讃美と感謝を捧げます。復活の希望による慰めと励ましから目を離さず、いつも心強く歩んで行けるように、私たちを強めてください。救い主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン