Sola Gratia

聖霊降臨後第22主日 説教

最大の戒めとダビデの子の謎

34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。 35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 38これが最も重要な第一の掟である。 39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

41ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。 42「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、 43イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。

44『主は、わたしの主にお告げになった。/「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

45このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 46これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。

はじめに: エルサレム神殿での最後の論争

21章からのエルサレム神殿を舞台にした緊迫したやり取りの中で、イエスさまはファリサイ派やサドカイ派や律法の専門家たちから次々と鋭い質問を受けました。イエスさまは、そのすべての罠を鮮やかにかわし、真理の光を開示してきましたが、ここでいよいよ核心をつく最後にして最大の問いが向けられます。

それは、細かな規則や数多くの律法に縛られていた人々にとって、人生の最も拠り所となる「中心軸」は一体何か、という問いでした。これに対するイエスさまの答えは、宗教的な枠組みを超えて、今を生きる私たちの心をも深く揺さぶる普遍的な響きを持っています。

1. ファリサイ派とサドカイ派、そして指導者たちの立ち位置

きょうの場面の背景を理解するために、当時のユダヤ教社会における主要なグループの聖書解釈を確認しておきましょう。

ファリサイ派は、民衆から絶大な支持を得ていた宗教的・政治的なグループです。彼らはモーセ五書だけでなく、代々伝えられてきた口伝律法(伝統)も重んじました。復活や天使の存在を信じ、厳格に日々の生活の清めや戒めを実践することで、神に喜ばれる生き方を追求しようとしました。

サドカイ派は、主にエルサレム神殿の祭司長や富裕層など、当時の支配的特権階級によって構成されていました。彼らはモーセ五書の文字通りの記録だけを絶対とし、口伝律法や「死者の復活」「天使の存在」などは一切認めない現実主義・保守主義者です。政治的な権益をローマ帝国との協調によって守ったため、民衆からの人気は高くはありませんでした。

また、当時の専門家たちを整理すると、「祭司長たち」は神殿の祭儀を司る特権階層で、「律法学者(律法の専門家)」は、モーセの律法を専門的に研究し、写し、現代の裁判官や法律家のように細かな解釈を下す知識人たちでした。彼らの多くはファリサイ派に属するか、または非常に近い思想を持っており、自分たちの専門知識こそが民を正しく導く権威であると自負していました。

2. 細則の遵守か、全体を貫く精神か

本題に入りましょう。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(36)という質問は、「神との正しい関係を保つためには、何に最も命をかけるべきか」という、ユダヤ教社会の根幹に関わる切実な問題です。当時のユダヤ教社会は、モーセの律法(トラー)に記された数多くの規定をめぐる議論は、二つの方向性に分かれ、激しく対立していました。

一方は、ファリサイ派の中でも厳格な潮流の人々です。彼らは、神から与えられた律法(通説では613の戒め)には、どれ一つとして軽いものはないと考えました。彼らにとっては、どの戒めも同じように絶対であり、「どれが一番大切か」と優劣をつけること自体が危険な妥協でした。

他方、律法学者や良心的な賢人たちは、人間が生活の細部にわたる何百もの規定をすべて完璧に守り通すことは現実的に不可能であり、「何が本当に大切なのか」という全体のバランスを見失っているのではないかという強い危機感を持っていました。彼らは、無数にある規定の背後に流れている「神の愛と慈しみ」という根本的な精神を見出し、それを中心に据えなければ、宗教はただの息苦しい形式主義になってしまうと考えていました。

律法学者たちの問いは、このように社会全体が「細部の一切の遵守」と「全体の中心精神の把握」の間で揺れ動いていたからこそのものでした。

3. イエスさまが示した圧倒的な統合

これに対し、イエスさまはどちらの理屈も選ばず、旧約聖書の二つの重要な言葉を一つに結び合わせて答えました。一つ目は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(申命記6章5)、二つ目は、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19章18)という掟です。

イエスさまは、神を愛すること(垂直的な愛)と隣人を愛すること(水平的な愛)を一つの不可分の絆として結び合わせ、「この二つの掟が、律法全体と預言者の総てがかかっている」と宣言しました。「心を尽くして神を愛する」という最も深い神への献身が、そのまま目の前の「隣人を自分のように愛する」という具体的な行動として現れ出でなければならない。すべての律法と預言者の教えがこの「愛」という一つの中心軸に架かっていると示したのです。

後の新約聖書において、イエスさまは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40)などとたびたび語り、苦しんでいる目の前の隣人に手を差し伸べることこそが、そのまま目に見えない神を愛することになると示しました。愛の対象を制限しようとする人間の垣根を完全に打ち破り、神の愛と隣人愛を一つのいのちとして結びつけたところに、イエスさまの教えの決定的な新しさがあったのです。

4. ダビデの子についての問答の真意

律法についての論争を終えた後、今度はイエスさまがファリサイ派の人々に向かって問いかけました。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」(41)。彼らは迷わず「ダビデの子です」と答えました。

ダビデ王は神から「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」(サムエル記下7章16)という永遠の契約(ダビデ契約)をいただいた、民族の象徴その人でした。ユダヤ人は、やがて遣わされる救い主(メシア)が、このダビデの血筋を引く地上の王として現れ、かつてのダビデ王国のような政治的・軍事的な栄光をイスラエルにもたらすことを、心から待ち望んでいたのです。

しかし、イエスさまは詩編110編1節「主は、わたしの主にお告げになった」を引用して、彼らの固定観念を根底から揺さぶり、問いかけました。「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」(45)。

この問答の意図は、メシアを単なる「ダビデの血を引く人間の後継者」や「政治的な英雄」として見ていた当時の人々の矮小な理解を打ち砕くことにありました。メシアは、人間の歴史や長幼の序の枠内に収まる存在ではなく、ダビデ自身をも超えた神の領域から遣わされる、全く新しい「永遠の主」であるという真理を、イエスさまは鮮やかに示したのです。

5. 「質問される者」から「裁きを告げる者」への転換

きょうの箇所の終わりは、印象的です。「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」(46)。

宗教的エリートたちが総出でイエスさまを罠にかけようとしましたが、もはや誰も次の言葉を持ちません。この「沈黙」は、「人間が神の御子を陥れようとする企みが、完全に打ち砕かれた」という決定的な転換点です。

この日以降、立場は完全に逆転し、イエスさまは宗教指導者たちに対する「七つの禍」の宣告とエルサレムの滅びの預言を、ご自身の権威をもって堂々と語り始めます。

おわりに: 私たちはどのような愛に生きているか

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」。この二つの大きな戒めは、私たちが日々の生活の中でどこに心を置き、どう他者と向き合うべきかを照らし出す、永遠の羅針盤です。私たちは自分のプライドや利害関係に囚われ、隣人を遠ざけたり、比べたりしてはいないでしょうか。

すべての人を超えたところから私たちの主となり、愛を注いでくださる方の温かなまなざしを胸に、今日も目の前の小さな隣人へと温かな手を差し伸べていく。その静かな歩みこそが、神の国に生きる者たちの最も美しい実りなのです。

祈りましょう。天の父なる神さま。あなたがイエスさまをとおして神と人との愛の絆を回復してくださったことを感謝します。私たちが、その恵みを深く自覚して神に立ち帰り、イエスさまにならって神と人とを愛し仕える道を歩めますように。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。