聖霊降臨後第18主日 説教
権威の正体
- 2026年9月27日(日)
- 聖霊降臨後第18主日
- マタイ21章23~32
23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」 24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」 27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。 29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。 30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。 31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
はじめに: エルサレム神殿での緊張
イエスさまがエルサレムの神殿に入り、そこで教えを説いていると、祭司長や民の長老たちがやってきました。彼らはイエスさまに、「何の権威でこれらのことをしているのか。誰がその権威を与えたのか」
(23)と詰め寄ります。
表面上はイエスさまの資格を問う冷静な問いかけに見えますが、その背後には隠しきれない焦りと敵意がありました。
1. なぜ彼らは「権威」にこだわったのか
当時の宗教指導者たちにとって、権威とは「神の代理人」として民を正しく管理し、律法を解釈する特権的な地位を意味していました。彼らが権威に執着したのは、それが彼らのアイデンティティそのものだったからです。
もしイエスさまが神から遣わされた者であると認めれば、自分たちの権威や立場が相対的に否定されます。ゆえに、権威を脅かす存在は、神の意図に反する「偽物」であらねばなりません。彼らは「真理」を探していたのではなく、「自分たちの正当性」を守るための論理を探していたのです。
イエスさまはこれに対し、洗礼者ヨハネを例に出して、彼らの矛盾を逆手に取ります。「ヨハネの洗礼は天からのものか、それとも人からのものか」
(25)と問われた彼らは、回答を避けるしかありませんでした。自分たちの立場を有利に保つことばかりを考え、目の前にある神の働きを直視できなかった彼らの硬直した信仰が、ここに浮き彫りになっています。
2. 神殿という「市場」と、子どもたちの賛美に隠された真意
祭司長や長老たちがイエスさまの「権威」に詰め寄る直前に(12-17節)、非常に象徴的な事件が起きていました。それが、イエスさまが神殿の境内から両替商や鳩を売る商人たちを追い出した「宮清め」の出来事です。
エルサレムの神殿は本来、万国の民が祈るための神聖な場所でした。しかし、当時の宗教指導者たちは、そこで犠牲の動物を高値で売らせ、神殿の通貨へ両替する手数料で巨利を得る不正な仕組み(市場)を黙認し、自らもその利益にあずかっていました。
イエスさまが神殿で権威ある教えを説き、病人を癒やし始めたとき、指導者たちが激怒した背景には、自分たちの既得権益や経済的な利権を脅かされたという焦りもあったのです。
商人を追い払い、神殿を本来の祈りの場へと戻したイエスさまのもとに、目の見えない人や足の不自由な人たちがやってきて、イエスさまは彼らを癒やしました。その様子を見ていた祭司長や律法学者たちは、神殿の境内で子どもたちが叫んでいた声に激しく憤慨します。「ダビデの子にホサナ。」
(15)
宗教指導者たちはイエスさまに、「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」
(16)と詰め寄ります。自分たちの権威や秩序が子どもたちの無邪気な声によって脅かされていると感じたからです。
しかしイエスさまは、旧約聖書の言葉を引用してこう返されました。「『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」
(16)。
エリートである宗教指導者たちが心をかたくなにし、権威を守ることに必死になっている一方で、社会的にも知識的にも無力な「子どもたち」が、神の救い主を素直に認めて賛美しています。ここにも、先週に続き「先と後」、「強者と弱者」の圧倒的な逆転劇が描かれています。
3. 権威の本当の源泉はどこにあるのか
祭司長や長老たちは、「何の権威でこのようなことをしているのか」
とイエスさまを追及しましたが、彼らの問いの根底には「自分たちの許可なく勝手に動くな」という支配欲がありました。
しかし、イエスさまの権威は、人間社会の組織や学校、宗教的階級制度から与えられたものではありませんでした。イエスさまの権威は、人間の不正や欺瞞を鋭く暴きながらも、病む者を癒やし、苦しむ者に寄り添うという「神の愛の実践そのもの」にありました。
権力者たちは規則や肩書き、伝統という「目に見える形」で権威を誇示しようとしましたが、イエスさまが示した権威は、傷ついた人々を解放し、神への純粋な信頼を取り戻させる「いのちの力」だったのです。
4. 二人の息子のたとえ: 言葉か、行いか
イエスさまは彼らに向かって、有名な「二人の息子のたとえ」を語り聞かせます。ある父親が息子たちに「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」
(28)と言いました。上の息子は「嫌だ」と答えましたが、その後考え直して働きに行きました。下の息子は「はい」と答えましたが、実際には行きませんでした。
イエスさまは問いかけます。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」
(31)と。長老たちは当然のように「兄の方だ」と答えます。
このたとえにおいて、イエスさまは、口先では「神に従います」と言いながら、実際の生活の現場では神の愛を体現せず、むしろ愛を阻害している状態を、鋭く批判したのです。
5. 「神の国」と「義」との関係
イエスさまは彼らに宣言します。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」
(31-32)。
ここで語られる「義」とは、律法を完璧に守ることではなく、「神の心を感じ取り、悔い改めて行動を変える柔軟さ」のことです。自分の非を認めて神の前にひれ伏す者にこそ、神の国の門が開かれます。権力者たちが求めたのは「法的な正しさ」でしたが、イエスさまが説いたのは「神の愛に動かされる実質的な歩み」です。
6. 徴税人や遊女たちが先に行く理由
イエスさまは、当時の社会で蔑まれていた徴税人や遊女たちが、彼らよりも先に神の国に入ると告げました。これは当時のエリートたちにとって、最も受け入れがたい衝撃的な宣告でした。
しかし、なぜ彼らが「先」に行けるのか。それは、彼らが自分の弱さや罪深さを自覚していたからです。彼らは神の救いをただひたすら必要としていました。逆に、宗教的な権威を盾にして「自分は大丈夫だ」と高を括っている者には、神の救いは入る隙間がないのです。
「二人の息子」のたとえは、私たち一人ひとりにも問いかけています。私たちは、口先だけですべてを済ませていないでしょうか。教会や宗教的なラベルに安住し、実際の日常の中で隣人を愛することや、自分自身の傲慢さを悔い改めることを後回しにしていないでしょうか。
神の国は、立派な肩書きや、過去の実績が優先される場所ではありません。たとえ一度は「嫌だ」と反発し、道から逸れたとしても、今、神の声に気づいて立ち止まり、ぶどう園へと足を向け直すその一歩を、父なる神は待っています。
祈りましょう。天の父なる神さま。御子イエスさまによって、自己保身に走る私たちに、正直に罪を認めて赦しにあずかる道が開かれたことを感謝いたします。私たちが日々、神に立ち帰って生きる者となるようお導きください。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン